
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第27章 黒い影
泉水もまた静かな表情で光照を見た。
「庵主さま。私は間違うていました。黎次郎は確かに私の息子ですが、あの子が榊原家の跡取りであるという宿命(さだめ)を変えることはできません。私一人だけの一存であの子のその宿命を変え、あの子を待つあまたの家臣の期待を裏切ることは許されないのです」
泉水は静謐な瞳で脇坂を見つめる。
「脇坂どの。私は今のあなたの言葉を信じたいと思います。あなたを信じ、我が子黎次郎を脇坂どのに託します」
脇坂はその場に手を付き、深々と頭を垂れた。
「そのお言葉、この脇坂倉之助元信、とくと心に刻み込みましてございます。どうか、それがしをお信じ下され。むろんのこと、心聞ききたる乳人もお付け申し上げまする。私めは殿にお願い申し上げ、若君さまの守役にして頂き、必ずや若君さまをご立派なもののふにお育て申し上げまする」
「どうか、黎次郎のこと、くれぐれもお願い申し上げまする」
泉水もまた深く頭を下げた。
そのわずか一刻後、黎次郎は脇坂倉之助に抱かれて、山を下っていった。泉水は時橋と共に山門まで旅立つ我が子を見送った。
むろん、泉水から一部始終を聞いた時橋は最初、猛反対したことは言うまでもない。が、幾ら異を唱えても、泉水の意思が固いことを知り、諦めた。泉水を育てた乳母だけに、一度決めたら絶対に意思を変えない泉水の性格を誰よりも知り抜いている―。
山門からは長い石段が続いている。泉水と時橋はそこで立ち止まった。黎次郎を抱いた脇坂がゆっくりと石段を降りてゆく。
―黎次郎ッ。
思わず名を呼んで引き止めたい衝動と闘いながら、泉水は溢れる涙をこらえた。
脇坂の後ろ姿が次第に小さくなり、遠ざかってゆく。突如として赤児の泣き声が聞こえてきた。かすかに聞こえてくる泣き声が泉水の心を千々に引き裂く。
「黎次郎!」
泉水は叫んで、階段を駆け下りようとした。その背中を時橋がひしと抱きしめる。
「姫さま、行ってはなりませぬ」
「でも、時橋。黎次郎が、黎次郎が泣いておる。早う、早う行ってやらねば」
泉水の眼から涙が零れ、したたり落ちる。
「庵主さま。私は間違うていました。黎次郎は確かに私の息子ですが、あの子が榊原家の跡取りであるという宿命(さだめ)を変えることはできません。私一人だけの一存であの子のその宿命を変え、あの子を待つあまたの家臣の期待を裏切ることは許されないのです」
泉水は静謐な瞳で脇坂を見つめる。
「脇坂どの。私は今のあなたの言葉を信じたいと思います。あなたを信じ、我が子黎次郎を脇坂どのに託します」
脇坂はその場に手を付き、深々と頭を垂れた。
「そのお言葉、この脇坂倉之助元信、とくと心に刻み込みましてございます。どうか、それがしをお信じ下され。むろんのこと、心聞ききたる乳人もお付け申し上げまする。私めは殿にお願い申し上げ、若君さまの守役にして頂き、必ずや若君さまをご立派なもののふにお育て申し上げまする」
「どうか、黎次郎のこと、くれぐれもお願い申し上げまする」
泉水もまた深く頭を下げた。
そのわずか一刻後、黎次郎は脇坂倉之助に抱かれて、山を下っていった。泉水は時橋と共に山門まで旅立つ我が子を見送った。
むろん、泉水から一部始終を聞いた時橋は最初、猛反対したことは言うまでもない。が、幾ら異を唱えても、泉水の意思が固いことを知り、諦めた。泉水を育てた乳母だけに、一度決めたら絶対に意思を変えない泉水の性格を誰よりも知り抜いている―。
山門からは長い石段が続いている。泉水と時橋はそこで立ち止まった。黎次郎を抱いた脇坂がゆっくりと石段を降りてゆく。
―黎次郎ッ。
思わず名を呼んで引き止めたい衝動と闘いながら、泉水は溢れる涙をこらえた。
脇坂の後ろ姿が次第に小さくなり、遠ざかってゆく。突如として赤児の泣き声が聞こえてきた。かすかに聞こえてくる泣き声が泉水の心を千々に引き裂く。
「黎次郎!」
泉水は叫んで、階段を駆け下りようとした。その背中を時橋がひしと抱きしめる。
「姫さま、行ってはなりませぬ」
「でも、時橋。黎次郎が、黎次郎が泣いておる。早う、早う行ってやらねば」
泉水の眼から涙が零れ、したたり落ちる。
