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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第4章 《新たな始まり》

 もし泉水と出逢うことがなければ、泰雅は今でも変わらず多くの女と戯れの恋の火遊びをし、その儚さにも気付くことなく、いっときの快楽に浸りきっていただろう。
 そんな想いに耽りながら歩いていた時、泰雅はふと前方に人影を認めた。泉水橋のたもとに女が佇んでいる。横顔しか見えないが、まだうら若い女―娘と呼んでも良い年頃だ。恐らく泉水とそう変わらないのではないか。
 女はうつむき加減に川面を見つめている。
 思い詰めたようなまなざしが気になった。あのような眼を女がするときは、大抵ろくなことにならぬものだ。
 泰雅は気配を殺して女の様子を窺っていた。と、女が突如として下駄を脱いだ。両手できちんと揃えている。これはまずいと、泰雅は全速力で走った。
 女が川に身を躍らせようとするのと、泰雅が女を背後から抱き止めたのは時をほぼ同じくしていた。
「止せ、馬鹿なことは止めろ」
「放して下さい」
 女が暴れる。小柄で華奢な身体は泰雅が少しでも力を込めれば、いとも容易く骨でも砕くことができるだろう。泰雅は舌打ちをしたい想いをこらえた。
「死んで、どうなるというのだ。生きていれば、また良いこともあろう。生命を無駄にするな」
 泰雅はそう言いながら、ハッとした。抱きしめた女の腹は大きく膨らんでいる―、この女は身ごもっているのだ。それも、もう恐らくは臨月、赤子が生まれてくるその日まで間がないのではないか。
「馬鹿な、身重の身体で死んで、どうする?たとえ生まれてくる前の生命だとて、親の勝手にはできぬ。折角授かった生命だぞ、何故、無駄にしようとする?」
 必死に説得している間にも、女は渾身の力で抵抗した。
「あなたさまに何がお判りになるというのです。私もこの子も生きていたとて、何の意味もないのです」
 女は泣いていた。泰雅は女の身の動きを封じながら懸命に言い聞かせる。
「良いか、よく聞け。この世に無駄な生命なんて一つもない。そなたの腹の赤子が生まれてくるのも、そなた自身が生まれたきたのもすべては何らかの意味があるからこそなのだ。生きている意味や価値がないなぞとほぞくのは、生命の大切を知らぬ大阿呆の申すことだぞ」

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