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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第27章 黒い影

「ご自分でお決めなられたことにござりましょう。私が幾ら反対申し上げても、姫さまは頑として首をお振りになられませなんだ。そこまで固いお気持ちでお決めあそばされたことならば、最後まで毅然としていらせられませ。我が子を手放される姫さまのお辛さは察するに余りありますれど、まだ頑是なきお歳で母君さまと引き離され、見知らぬ遠い地へ赴く黎次郎さまの方がよほどおいたわしうございますよ。母君さまなれば、どんなにお辛くとも、ご辛抱なさらねばなりませぬ。それが黎次郎さまのおんためと思し召されてお決めになられたことであれば、尚更、笑うて門出を見送って差し上げられませ」
 泉水がその場にくずおれた。地に打ち伏して号泣する。
 泉水は脇坂に確かに言った。
 けして黎次郎を不幸にはせぬと約束して欲しいと頼んだ。だが、物心つかぬ前に母と離れた子が果たして本当に幸せになれるのだろうか。二歳で母光照と生き別れた夢五郎は、今でも自分が母に捨てられたのだと思っている。当時の状況から致し方のなかったことだと理解はしていても、心では受け容れることができていない。
 そして、光照は黎次郎を身ごもった泉水にかつて語った。
―この世に二人しかおらぬ母と子でありながら、互いに憎み合い、恨み合うのは辛きこと。母は我が子の成長を傍で見守り、子とは母に見守られ慈しまれていることを感じながら健やかに育つ―そんな環境が子どもにとっては必要なのですよ。あなたは、それが許されるのですから、絶対に子を生み、手許で育てるべきです。二十四年前、私には果たせなかったことを、あなたには是非果たして欲しい、我が子だけは手放さず手許で慈しみ育てて欲しいのです。
 結局、自分もまた果たせなかった。光照にあれほど言われたのに、大切な我が子を手放してしまった。母親と引き離された子の悲哀と葛藤を夢五郎の姿から察していたはずなのに、黎次郎をもその同じ哀しみの淵に投げ入れた。
 黎次郎は、きっと、いつか泉水を憎むだろう。自分を捨てた酷い母を鬼のような冷たい緒女だと思うに相違ない。
 でも、それは当然のことだ。憎まれても当然の仕打ちを泉水は黎次郎にしたのだから。たとえ、そのことが黎次郎のためになるゆえと思ったからこそ選んだ道だとしても。黎次郎にとって、母親に見捨てられたのだという事実は変わらない。

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