
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第28章 出家
本堂の中央にある須彌壇の上には黒塗りの厨子が安置されている。その内におわすのは黄金に彩色された観音菩薩であった。御仏が慈愛に溢れたまなざしを向けている。慈しみに満ちた視線でありながらも、どこかに哀しみを湛えたその表情は、どこまでも静謐だ。
その観音像のにもどこか似た表情を浮かべた、光照は静かにその場に座っている。
「判りました、。おせんどののお気持ちがそれほどに固いのであれば、私ももう何も申しませぬ。剃髪を許しましょう」
その言葉に、泉水は深く頷き、額を磨き抜かれた床板にこすりつけた。静まり返った空間に、ただ時橋のすすり泣く声だけが消えていった。
その数日後、泉水は光照の下で出家得度の儀を行った。むろん、導師は師匠の光照であり、儀式の一切は光照が執り行った。時橋は本堂の片隅でそのすべてを見守っていた。
光照が剃刀を泉水の黒髪に当てた刹那、時橋は舌を噛みそうなほどに強く強く唇を噛みしめた。握りしめた両の拳が膝の上で震え、涙の雫が着物を濡らす。
時橋の脳裡に、泉水の幼かった頃の姿が次々に蘇っては消えてゆく。初めて乳を吸わせた赤児の頃の無心な顔、樹に登っては時橋に叱られたばかりいた少女の頃、泰雅に嫁いだ日の眼の覚めるような艶やかな白無垢姿、黎次郎を生んで母となった瞬間の輝くような笑顔―。
子どもの頃から愛情を込めてもゆく末は幸多かれと願ったのに、むざとこの若さで豊かな丈なす黒髪を降ろすのはあまりにも不憫であった。
我が身の無力さが、今はただただ情けなかった。ひたすら泉水の幸せだけを祈り、大切に育てたのは、何もこのような目に遭わせるためではなかったはずだ。誰よりも幸せになって欲しいと願っていたのに、御仏は何と残酷なお仕打ちをなさるものか! 時橋には今は、この世に仏も何もあったものではないとすら思えてならない。
―姫さま、どうか何のお力にもなれなかった姫さまをお守りできなかった私をお許し下さいませ。
時橋は小さな堂の片隅で声を殺して泣いた。その日は朝からしのつく雨が降る一日であった。
時に泉水、二十歳。法名は師光照の一字を与えられ、蓮照と号す。
その観音像のにもどこか似た表情を浮かべた、光照は静かにその場に座っている。
「判りました、。おせんどののお気持ちがそれほどに固いのであれば、私ももう何も申しませぬ。剃髪を許しましょう」
その言葉に、泉水は深く頷き、額を磨き抜かれた床板にこすりつけた。静まり返った空間に、ただ時橋のすすり泣く声だけが消えていった。
その数日後、泉水は光照の下で出家得度の儀を行った。むろん、導師は師匠の光照であり、儀式の一切は光照が執り行った。時橋は本堂の片隅でそのすべてを見守っていた。
光照が剃刀を泉水の黒髪に当てた刹那、時橋は舌を噛みそうなほどに強く強く唇を噛みしめた。握りしめた両の拳が膝の上で震え、涙の雫が着物を濡らす。
時橋の脳裡に、泉水の幼かった頃の姿が次々に蘇っては消えてゆく。初めて乳を吸わせた赤児の頃の無心な顔、樹に登っては時橋に叱られたばかりいた少女の頃、泰雅に嫁いだ日の眼の覚めるような艶やかな白無垢姿、黎次郎を生んで母となった瞬間の輝くような笑顔―。
子どもの頃から愛情を込めてもゆく末は幸多かれと願ったのに、むざとこの若さで豊かな丈なす黒髪を降ろすのはあまりにも不憫であった。
我が身の無力さが、今はただただ情けなかった。ひたすら泉水の幸せだけを祈り、大切に育てたのは、何もこのような目に遭わせるためではなかったはずだ。誰よりも幸せになって欲しいと願っていたのに、御仏は何と残酷なお仕打ちをなさるものか! 時橋には今は、この世に仏も何もあったものではないとすら思えてならない。
―姫さま、どうか何のお力にもなれなかった姫さまをお守りできなかった私をお許し下さいませ。
時橋は小さな堂の片隅で声を殺して泣いた。その日は朝からしのつく雨が降る一日であった。
時に泉水、二十歳。法名は師光照の一字を与えられ、蓮照と号す。
