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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第28章 出家

 その夜、蓮照となったばかりの泉水は、なかなか寝付けなかった。出家したとはいえ、姿形が変わったにすぎず、この小さな庵での暮らしぶりは殆ど変わらない。早朝に起き出して水汲みや掃除をし、朝と夕は光照と共に読経を捧げる。その合間には様々な雑用をこなした。尼姿となって十日が過ぎたある日の夜のことである。
 梅雨の最中とあって、ここ数日は毎日、雨続きである。それが今宵は珍しく晴れた。
 銀の眉月が冴え渡る夜空に銀色に輝き、淡い紫に色づいた庭の紫陽花を照らしていた。
 蓮照(泉水)は何故か軽い胸騒ぎのようなものを感じて眠れなかった。何がどう不安なのかと問われても、上手くは応えられない。それなのに、胸の内に嫌な予感というのか、妙な胸騒ぎが黒雲のように渦巻いている。
 床に入っても一向に眠れぬままに刻だけが徒に過ぎた。いつもなら泉水がそんな様子を見せれば、傍らの時橋がすぐに何事かと不安がるのだけれど、昼間の疲れからか、時橋は布団に身を横たえて背を向けたまま、身じろぎもしない。
―時橋ももう若くはない。疲れているのであろう。
 光照に進言して、もう少し時橋の仕事を軽くしてやった方が良いと考えたりする。これまで苦労ばかりかけて、育ててくれた恩にも報いることもなく過ぎてきた。孝行したいという気持ちだけはあっても、結局何もできずに時橋に甘えてばかりいたような気がする。
 泉水はもう姫君でもなく、奥方でもない、ただの一人の俗世を捨てた尼であった。今でも泉水が水汲みをしようとすれば、すぐに飛んできて、先に重い天秤を担ごうとするし、大変なことがあれば、泉水を庇い自らが楯になろうとする忠実無比な時橋である。
 だが、ただの尼となった泉水は何も時橋に仕事を助けて貰う必要はない。これからは時橋に庇われ守られるだけではなく、泉水が時橋を労り、その負担を軽くするべく、すべての仕事を肩代わりすれば良いのだ。
―私はこれまで時橋に甘えすぎていたのやもしれぬ。
 何故か今夜はそんなことばかりが思われる。明日からはもう少し時橋を労ってやれねばと改めて思っている中に、いつしか眠りに落ちていたようである。

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