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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第28章 出家

 ふと目覚めた時、何げなしに隣を見やると、時橋が眠っていたはずの夜具はもぬけの空であった。泉水は小首を傾げた。眠りに落ちるまで胸の中で渦巻いていた、あの嫌な感じが再びもたげてくる。
 いつもなら、夜半に目覚めた時、時橋の姿が見えないなぞということはなかった。いや、物心ついた頃より、自分が必要とした時、あの乳母が傍にいなかったことなどなかったのだ。違和感がちりちりと泉水の胸を焦がす。
 違和感は直に烈しい不安と怖ろしい予感に変わった。
「時橋―」
 大好きな乳母の名を小さく口に出して呟いてみる。いつもなら、どこにいても呼べば駆けつけてくるのに、今夜は姿が見えぬとろこか、返事もない。
「時橋、時橋!」
 泉水の声が大きくなる。泉水は薄い夜具からすべり出た。立ち上がり、夢中で部屋を出る。廊下に出ると、細い月が中天に掛かっていた。まるで血の色を滲ませたような紅い月が不気味な光を放っている。
 その不吉な色は、はかる昔、許婚者の堀田祐次郎が夭折した日の朝に見た椿の色を彷彿とさせた。
「時橋ッ、時橋」
 泉水は夢中で走った。裸足のままであることも厭わず庭に走り降り、庭のあちこちを探し回った。しかし、狭い庭は探す手間も必要なく、ほどなく時橋は見つかった。
「時橋―ィ」
 泉水の絶叫が夜の静寂をつんざく。その声で、伊左久が物置小屋から飛び出してくる。伊左久は庭の片隅の小さな小屋で起居しているのだ。女ばかりの尼寺に、男が共に起き伏しするのを遠慮してのことであった。伊左久も眠っていたはずで、寝間着代わりの着古した作務衣姿であった。
「どうした、おせんちゃん」
 伊左久が気遣わしげに問うのに、泉水は蒼白な顔で首を振り続けた。泉水はあまりの衝撃で、物も言えなくなっていた。伊左久が訝しく思い、その視線の先を辿ると、桜の樹の下に女が転がっていた。女は―時橋だ。
 朽ち葉色の着物に見憶えがある。
 泉水が時橋に駆け寄った。力を失った時橋の身体を抱え起こし、気狂いのように揺さぶった。
「時橋ッ、時橋ッ。一体、何としたのじゃ?何ゆえ、かようなことを致した? 何ゆえ、私一人を残して逝ってしもうたのじゃ」

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