
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第28章 出家
悲痛な声が夜陰に消えてゆく。時橋は血の海の中に転がっていた。三日月の儚い光だけではしかとは判じ得ぬけれど、よくよく眼を凝らしてみれば、桜の古樹の根許にはおびただしい血がひろがり、地面に滲んだ血は既に赤黒く変色しつつあった。
「時橋―、時橋」
泉水はひたすら泣きじゃくった。
口許に耳を寄せていても、既に息遣いは完全に絶えていた。喉をひと突きにしたものか、血に染まった短刀が物言わぬ骸の傍に転がっていた。
「何故じゃ、何故、このようなことを」
涙が溢れ出て止まらない。
「こんなに冷とうなってしもうて」
泉水は時橋の冷たくなった身体を抱きしめ、その手さすり続けた。そうすれば、時橋の身体が温かさを取り戻し、失った生命を呼び戻せるとでもいうかのように、ただ一心にさすり続けていた。
伊左久が急を知らせ、光照も愕いてすぐに駆けつけた。まるで気が触れたように時橋の手をさすり続ける泉水を見、光照と伊左久は顔を見合わせた。
「蓮照、私の声が聞こえますか」
静かに問いかけると、泉水が泣き腫らした眼を虚ろに彷徨わせた。
「時橋は既に御仏のみ国に召されました。浄土へと旅だったのです。もう、楽にしてやりましょう」
だが、泉水は駄々をこねる幼児のように首を振った。
「いいえ、時橋は死んではおりませぬ。時橋が私を置いて、どこかに行ってしまうなどあり得ませぬ」
「蓮照、辛いのはよく判りますが、現実は現実として受け止めねばなりませぬ。真実をありのままに受け容れるのが、御仏に仕える私たちの務めでもあるのですから」
光照の言葉に、泉水が唇を噛みしめる。
大粒の涙が時橋の手を握り込んだ泉水の手の上にポトリと落ちた。
月の光が時橋の最期の表情(かお)を照らし出している。その表情は、あたかもうっすらと笑んでいるかのように安らかで、苦悶は微塵も刻まれてはいない。そのことが、泉水にはせめてもの救いに思えた。
「時橋―、時橋」
泉水はひたすら泣きじゃくった。
口許に耳を寄せていても、既に息遣いは完全に絶えていた。喉をひと突きにしたものか、血に染まった短刀が物言わぬ骸の傍に転がっていた。
「何故じゃ、何故、このようなことを」
涙が溢れ出て止まらない。
「こんなに冷とうなってしもうて」
泉水は時橋の冷たくなった身体を抱きしめ、その手さすり続けた。そうすれば、時橋の身体が温かさを取り戻し、失った生命を呼び戻せるとでもいうかのように、ただ一心にさすり続けていた。
伊左久が急を知らせ、光照も愕いてすぐに駆けつけた。まるで気が触れたように時橋の手をさすり続ける泉水を見、光照と伊左久は顔を見合わせた。
「蓮照、私の声が聞こえますか」
静かに問いかけると、泉水が泣き腫らした眼を虚ろに彷徨わせた。
「時橋は既に御仏のみ国に召されました。浄土へと旅だったのです。もう、楽にしてやりましょう」
だが、泉水は駄々をこねる幼児のように首を振った。
「いいえ、時橋は死んではおりませぬ。時橋が私を置いて、どこかに行ってしまうなどあり得ませぬ」
「蓮照、辛いのはよく判りますが、現実は現実として受け止めねばなりませぬ。真実をありのままに受け容れるのが、御仏に仕える私たちの務めでもあるのですから」
光照の言葉に、泉水が唇を噛みしめる。
大粒の涙が時橋の手を握り込んだ泉水の手の上にポトリと落ちた。
月の光が時橋の最期の表情(かお)を照らし出している。その表情は、あたかもうっすらと笑んでいるかのように安らかで、苦悶は微塵も刻まれてはいない。そのことが、泉水にはせめてもの救いに思えた。
