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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第28章 出家

 時橋の死後、泉水は我と我が身を責める日々が続いた。何ゆえ、もう少し気をつけてやらなかったのか。泉水が今少し時橋の様子を注意深く見守っていれば、もしや時橋の死を―最悪の事態だけは避けられたかもしれないのだ。時橋が自ら生命を絶つほど思い悩んでいたとは想像もしなかった。
 何が親孝行だろう。せめて親孝行の真似事なりともしたいと幾度も考えていた我が身の浅はかさを自分で嗤った。長年傍にいながら、時橋の考えていること、その気持ちをいささかも理解していなかった。育ててくれ、母に勝るとも劣らぬ慈愛を注いでくれた時橋の恩に報いるどころか、みすみす死なせてしまった。
 泉水の出家が時橋を絶望させたのかもしれない。時橋は最後まで泉水の剃髪には反対していた。流石に光照が剃髪を許してからは表立っては何も言わなくなったけれど、時折、涙ぐんで泉水を見つめていることがあった。
 泉水は時橋を母と慕い、時橋はまた泉水を娘同然に思っていたのだ。二人の関係は単なる主従以上の強い絆で結ばれていた。もし仮に己が血を分けた娘が若い身空で世捨て人となったら―、母親は一度は止めようとするだろう。時橋は自分が泉水を現世に引き止められなかったことをひどく気に病んでいた。泉水が世を捨てたのは、自分の力が足りなかったせいだと自分を責めていた。
 その時橋の苦渋を知りながら、泉水は何もしてやらなかった。ただ我が身一人が黎次郎を失った哀しみから逃れたくて、一途に仏道に帰依することを願っていた。そんな泉水を、時橋はどのような想いで見ていたのか。恐らくは泉水が愛児を手放した哀しみのあまり、この世を捨てる気になったのだと思っていたただろう。そして、泉水を救えなかった自分に責任を感じ、生命を絶つ気になったに相違ない。
―私が時橋を殺したのようなものではないか。
 泉水は悲嘆の底に沈んだ。いや、泉水を苛んだのは哀しみばかりではなかった。自分が我が儘を通したばかりに、大切な母とも呼べるべき人を死なせてしまったのだ。苦い悔恨が泉水をがんじがらめにした。
 果たして、仏門に入ったことは正しかったのだろうか。ただ己れの苦しみから逃れたい一心で尼となり、その挙げ句、時橋は死んだ。
 一体、自分は何のために尼となったのか。これでは人を救うどころか、窮地に追い込んでいるようなものだ。

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