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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第28章 出家

 鬱々と悩み、修行にも身に入らぬ日々が続いた。そんな泉水を師である光照は哀しげな眼で見つめていた。
 そんなある日のこと。時橋が自害してからふた月近くが経っていた。八月の盆も近い暑い日だった。泉水は廊下に一人座り、空を見上げていた。
 庭の樹々の梢か無数の蝉の声が降っている。昔はよく樹に登って蒼空を見上げたものだ。〝槙野のお転婆姫〟と呼ばれていた少女時代、泉水は庭の樹に登るのが日課であった。空の高みに近い場所にいると、どんな嫌なことも忘れられた。が、大抵は時橋に見つかり、後でさんざん怒られた―。
 流石に尼姿となってまで樹登りはしないが、今もこうして蒼い空を眺めていると、時橋を喪った哀しみも幾ばくかは薄れるようだ。それでも、何をしていても、どこにいても、思い出すのは優しかった乳母との尽きぬ想い出ばかりであった。
 泉水はゆるりと視線を動かした。蒼い空の涯(はて)に白い入道雲が小さな島のようにぽっかりと浮いている。空から地面へと視線を移すと、ふと足許に何か落ちているのに気付く。何げなく拾い上げてみたそれは、蝉の亡骸であった。地面からようよう這い出て、成虫になりかけたところで力尽きたものか、片方の羽根の一部はまだ伸びきっておらず、そのまま息絶えていた。
 その傍に幼虫の抜け殻がぽつんと転がっている。
―哀れな。
 羽化の途中で死んだ蝉を泉水は哀しい想いで眺めた。大人になりきることなく息絶えた蝉が、何故か現世ではついに居場所を見つけられなかった我が身のように思えてならない。
―時橋、何故、私を一人にしたの? お前のおらぬこの世界はあまりにも淋しすぎる。
 心の中で時橋に呼びかける。
 叶うことなら、時橋の許に自分もゆきたい。この世は、あまりにも辛いことが多すぎる。
 泉水がそんな想いら囚われていた時、隣に誰かが座った。
「時橋?」

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