
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第28章 出家
そんなことばあるはずはないのに、つい懐かしい名を呼んでいた。こうして泉水が一人で庭を眺めていると、時橋は本当によくそっと傍に来て座っていた。別に何を言うわけでもない、ただ傍に控えて見守っているだけであった。だが、たったそれだけたで、泉水はいかほど安心できただろう。いつも時橋が傍にいてくれると思っただけで、母に守られている子どものような安堵に包まれた。
「蓮照」
まだ身に馴染まぬ名を呼ばれ、泉水はハッと我に返る。
隣で光照が優しい微笑みを浮かべていた。
「何を見ていたのですか」
問われ、素直に応えた。
「蝉を見ておりました」
「蝉を」
泉水は手のひらに載せた小さな蝉を指し示す。羽化の途中で死んだ蝉を光照はしばらく無言で見つめている。
静寂が二人の尼を包む。光照は泉水の手のうえの蝉をそっと掴んだ。
「蓮照、この蝉は何のためにこの世に生まれきたのだと思いますか」
唐突に訊ねられ、泉水は応えに窮した。
考えあぐねた末、思ったままを口にする。
「この蝉は生きるといえるほど生きてはおりませんでしょう。何のため―と申されましても、私にはお応えのしようがございませぬ」 光照は我が手のうえの蝉に静かな視線を注いでいる。酷い言いようかもしれないが、羽化の途中で力尽きた蝉の生に何らかの意味があったとは考えられない。
「この蝉は不幸にして、陽の目を見ることなく息絶えました。されど、蝉は死ぬために生まれてこようとしたのではない。たとえ短い生とはいえ、精一杯生きた―いえ、生きようとしたのです。人も同じことだと思いませんか。蝉も人も、およそこの世に生きとし生けるものすべては何かをなすためにこの世に生まれてくるのだと、私は日頃から考えています」
「何かをなすためにこの世に生まれてくる」
泉水は師匠の言葉をなぞる。
光照が泉水を見返しながら、力強く頷いた。
「そう、人は何かをなすために生まれ、御仏に与えられた人生を精一杯生きるのです。だとすれば、時橋は蓮照を守り育てるために生きていたのでしょう。蓮照、あなたこそが時橋の生き甲斐であったに相違ありませぬ。時橋はあなたという存在を得て、幸せだったに違いない。少なくとも、私にはそのように見えましたよ」
泉水の眼に涙が溢れる。
「蓮照」
まだ身に馴染まぬ名を呼ばれ、泉水はハッと我に返る。
隣で光照が優しい微笑みを浮かべていた。
「何を見ていたのですか」
問われ、素直に応えた。
「蝉を見ておりました」
「蝉を」
泉水は手のひらに載せた小さな蝉を指し示す。羽化の途中で死んだ蝉を光照はしばらく無言で見つめている。
静寂が二人の尼を包む。光照は泉水の手のうえの蝉をそっと掴んだ。
「蓮照、この蝉は何のためにこの世に生まれきたのだと思いますか」
唐突に訊ねられ、泉水は応えに窮した。
考えあぐねた末、思ったままを口にする。
「この蝉は生きるといえるほど生きてはおりませんでしょう。何のため―と申されましても、私にはお応えのしようがございませぬ」 光照は我が手のうえの蝉に静かな視線を注いでいる。酷い言いようかもしれないが、羽化の途中で力尽きた蝉の生に何らかの意味があったとは考えられない。
「この蝉は不幸にして、陽の目を見ることなく息絶えました。されど、蝉は死ぬために生まれてこようとしたのではない。たとえ短い生とはいえ、精一杯生きた―いえ、生きようとしたのです。人も同じことだと思いませんか。蝉も人も、およそこの世に生きとし生けるものすべては何かをなすためにこの世に生まれてくるのだと、私は日頃から考えています」
「何かをなすためにこの世に生まれてくる」
泉水は師匠の言葉をなぞる。
光照が泉水を見返しながら、力強く頷いた。
「そう、人は何かをなすために生まれ、御仏に与えられた人生を精一杯生きるのです。だとすれば、時橋は蓮照を守り育てるために生きていたのでしょう。蓮照、あなたこそが時橋の生き甲斐であったに相違ありませぬ。時橋はあなたという存在を得て、幸せだったに違いない。少なくとも、私にはそのように見えましたよ」
泉水の眼に涙が溢れる。
