
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第29章 岐路(みち)
《巻の四―岐路(みち)―》
刻は穏やかに何事もなく過ぎてゆく。泉水が山頂の尼寺に来てから、幾つもの季節がめぐった。
春、夏、秋、冬と山は四季折々の色に染まり、刻は静かにうつろう。いつしか泉水がここに身を寄せた日から三年の月日を数えていた。今では泉水はこの小さな尼寺にとっては欠かせぬ存在になっていた。寄る年波ですっかり足腰の弱った伊左久に代わり、水汲みだけでなく薪割も難なくこなし、煮炊きから掃除一切まで引き受ける。
齢七十を過ぎた伊左久はここのところ、床に就くことが多かった。持病の腰痛がこの冬の厳しい寒さで悪化したのだ。それでなくとも、庭に建てた小さな小屋では、寒さを十分に防ぐことはできない。光照は伊左久に一つ屋根の下で暮らすことをしきりに勧めた。泉水と光照が同じ部屋で起居し、泉水が使っていた納戸代わりの小部屋を伊左久に譲ろうと提案してみたものの、いつも伊左久は固辞するばかりだった。
「小さな掘っ立て小屋だけれども、儂にとっては長年住み慣れた我が家だよ。今更、他の場所に移ろうなんざァ考えてみたこともねえや」
幾ら光照が勧めてみても、これだけは頑として譲らない。伊左久は四十代の初めから、この月照庵で暮らしている。当時、光照もまだ二十代と若かった。その当時はともかく、伊左久も七十を迎え、光照も五十半ばを過ぎた現在、伊左久が光照と同じ寺内に住んだからとて、何の問題もないと思えるのだが、伊左久は伊左久なりに最後まで己れに課した戒めは守り通すつもりのようであった。
その日、泉水は寺を出て、近くの河原まで赴いた。その川は毎朝、水汲みに来る場所でもある。河原には春の七草にも数えられる山菜がたくさん自生している。泉水は持参した竹籠に溢れんばかりの山菜を摘んだ。蓬や芹は湯をざっと通し、お浸しにしても良いし、更に粥や味噌汁の具にもなる。時には蓬餅をこしらえれば、見かけによらず甘い物好きの伊左久がたいそう歓ぶ。
籠を一杯にして、ふと気付いたときにはもう陽が高くなっていた。朝方寺を出てきたのだから、随分と長い刻を過ごしたことになる。
刻は穏やかに何事もなく過ぎてゆく。泉水が山頂の尼寺に来てから、幾つもの季節がめぐった。
春、夏、秋、冬と山は四季折々の色に染まり、刻は静かにうつろう。いつしか泉水がここに身を寄せた日から三年の月日を数えていた。今では泉水はこの小さな尼寺にとっては欠かせぬ存在になっていた。寄る年波ですっかり足腰の弱った伊左久に代わり、水汲みだけでなく薪割も難なくこなし、煮炊きから掃除一切まで引き受ける。
齢七十を過ぎた伊左久はここのところ、床に就くことが多かった。持病の腰痛がこの冬の厳しい寒さで悪化したのだ。それでなくとも、庭に建てた小さな小屋では、寒さを十分に防ぐことはできない。光照は伊左久に一つ屋根の下で暮らすことをしきりに勧めた。泉水と光照が同じ部屋で起居し、泉水が使っていた納戸代わりの小部屋を伊左久に譲ろうと提案してみたものの、いつも伊左久は固辞するばかりだった。
「小さな掘っ立て小屋だけれども、儂にとっては長年住み慣れた我が家だよ。今更、他の場所に移ろうなんざァ考えてみたこともねえや」
幾ら光照が勧めてみても、これだけは頑として譲らない。伊左久は四十代の初めから、この月照庵で暮らしている。当時、光照もまだ二十代と若かった。その当時はともかく、伊左久も七十を迎え、光照も五十半ばを過ぎた現在、伊左久が光照と同じ寺内に住んだからとて、何の問題もないと思えるのだが、伊左久は伊左久なりに最後まで己れに課した戒めは守り通すつもりのようであった。
その日、泉水は寺を出て、近くの河原まで赴いた。その川は毎朝、水汲みに来る場所でもある。河原には春の七草にも数えられる山菜がたくさん自生している。泉水は持参した竹籠に溢れんばかりの山菜を摘んだ。蓬や芹は湯をざっと通し、お浸しにしても良いし、更に粥や味噌汁の具にもなる。時には蓬餅をこしらえれば、見かけによらず甘い物好きの伊左久がたいそう歓ぶ。
籠を一杯にして、ふと気付いたときにはもう陽が高くなっていた。朝方寺を出てきたのだから、随分と長い刻を過ごしたことになる。
