
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第29章 岐路(みち)
良い加減に戻ろうと、漸く引き返すことにした。もうすっかり通い慣れた道を通る途中、ぽっかりとその場所だけひらけた空間が出現する。小さなながらも、野原のようになったそこには菜の花が一面に群れ咲き、さながら黄色の絨毯を敷き詰めたように見えた。
泉水は思わず眼を奪われ、その場に立ち尽くした。行きは急いでいたから通り過ぎたものの、今は帰路である。少しくらいならば寄り道も構わないだろうと思い直し、野原にしゃがみ込んだ。普段なら野の花を手折ることなどしないけれど、今日だけは特別と言い訳する。伊左久が二日前から風邪を引き込んで、寝込んでいるのだ。あの掘っ立て小屋で一日中寝ているのは、さぞ心むすぼれるに違いない。せめて菜の花の一本なりとも持ち帰って枕辺に飾ってやれば、いかほど歓ぶことか。
一輪だけ摘んだ花を籠に入れ、立ち上がる。
雲雀が空高く頭上で囀る声が聞こえてきた。やわらかな風が頬を撫で、通り過ぎてゆく。墨染めの衣に同色の頭巾で頭をくるんだ泉水が菜の花の海に佇む姿は、一幅の絵のようでもあった。
泉水が名残惜しげに菜の花たちを見つめていたその時。
少し離れた前方で枯れ枝を踏みしだくような音が聞こえた。泉水は弾かれたように顔を上げた。
泉水が菜の花畑に佇んでいたのとほぼ同じ頃、一人の男が馬で山道をゆっくりと登っていた。男は武士らしきいでたちで、小さな川を認め、馬の手綱を引いた。ひらりと地面に降り立つと、馬を引いて水際まで行き、水を飲ませた。その後、河原に生えていた杏子の樹に自ら乗ってきた馬をつなぐ。
男はゆっくりと周囲を見回した。この辺りには山桜が群生しているようだ。今はまだ弥生の半ばとて桜は咲いてはおらぬが、あと半月も経てば、この界隈は一面薄紅色に染まるだろう。その頃に来るのも悪くはないかもしれぬ―なぞと考えつつ、更に視線をめぐらせる。
桜の開花にはまだ間があったけれど、男がたった今、愛馬をつないだ杏子の花は今が満開であった。淡紅色の愛らしい花を一杯につけたその姿は何故か、男の知るたった一人の女を思い出させる。
泉水は思わず眼を奪われ、その場に立ち尽くした。行きは急いでいたから通り過ぎたものの、今は帰路である。少しくらいならば寄り道も構わないだろうと思い直し、野原にしゃがみ込んだ。普段なら野の花を手折ることなどしないけれど、今日だけは特別と言い訳する。伊左久が二日前から風邪を引き込んで、寝込んでいるのだ。あの掘っ立て小屋で一日中寝ているのは、さぞ心むすぼれるに違いない。せめて菜の花の一本なりとも持ち帰って枕辺に飾ってやれば、いかほど歓ぶことか。
一輪だけ摘んだ花を籠に入れ、立ち上がる。
雲雀が空高く頭上で囀る声が聞こえてきた。やわらかな風が頬を撫で、通り過ぎてゆく。墨染めの衣に同色の頭巾で頭をくるんだ泉水が菜の花の海に佇む姿は、一幅の絵のようでもあった。
泉水が名残惜しげに菜の花たちを見つめていたその時。
少し離れた前方で枯れ枝を踏みしだくような音が聞こえた。泉水は弾かれたように顔を上げた。
泉水が菜の花畑に佇んでいたのとほぼ同じ頃、一人の男が馬で山道をゆっくりと登っていた。男は武士らしきいでたちで、小さな川を認め、馬の手綱を引いた。ひらりと地面に降り立つと、馬を引いて水際まで行き、水を飲ませた。その後、河原に生えていた杏子の樹に自ら乗ってきた馬をつなぐ。
男はゆっくりと周囲を見回した。この辺りには山桜が群生しているようだ。今はまだ弥生の半ばとて桜は咲いてはおらぬが、あと半月も経てば、この界隈は一面薄紅色に染まるだろう。その頃に来るのも悪くはないかもしれぬ―なぞと考えつつ、更に視線をめぐらせる。
桜の開花にはまだ間があったけれど、男がたった今、愛馬をつないだ杏子の花は今が満開であった。淡紅色の愛らしい花を一杯につけたその姿は何故か、男の知るたった一人の女を思い出させる。
