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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第29章 岐路(みち)

 女に逢いたい一心でここまで馬を駆けさせてきたものの、いざとなると、心が萎えてくる。自分が女に嫌われているのは端から判っていたことであった。女―妻、いや、かつて妻だった女は男から逃げたのだ。ある日突然、黙って屋敷から姿を消し、果ては、江戸から離れたこんな山奥の尼寺に引きこもり、尼となってしまった。
 ひとたび僧籍に入った身であれば、たとえ男がどれほど恋い焦がれたところで、どうにもならない。今日はつい恋慕の想いに耐えかねて来てみたが、最初から女に逢うつもりはなかった。ただ恋しい女のいる寺の近くまで来てみようと思ったにすぎなかった。女に対する未練は依然としてあったが、女が出家したと知った時点で、この想いは諦めるしかないのだと自らに言い聞かせていた。
 妻に逃げられてから、酒に溺れる日々ばかりを過ごしたせいか、一年ほど前から肝臓を患っている。荒んだ生活は男の身体を奥底から蝕んでいた。
 今も変わらず、男は奥向きの陽もろくに差さぬ部屋で日がな酒を浴びるように呑んでいる。政にもろくに興味を示さず、ただ酒浸りの日々を過ごしているばかりだ。女を欲しいとは思っても、妻以外の女を抱きたいとは思わず、女っ気なしの寡夫暮らしであった。
 生きているのやら死んでいるのやら判らぬ怠惰な日々ので、妻の残した息子の顔を見るひとときだけが心の安らぎであった。妻の顔を彷彿とさせる愛らしい口許や黒い瞳を見る度に、とうの昔に離れていった妻の面影を幼い息子の顔に重ねている。
 ひと粒種の黎次郎は今年、四歳になった。傍から見ても、男はこの一人息子を溺愛していた。男にとって、幼い息子と過ごす一日のうちのわずかな時間だけが生きていると思えるひとときであった。黎次郎は守役に任じた脇坂倉之助の傅育が良いせいか、まだ四歳ながら、利発な子だ。四歳で論語をすらすらと諳んじ、家臣たちは〝神童でおわす〟と大仰に騒いでいる始末である。
 もっとも、肝心の主君が毎日酒浸りのこの有り様では、まだ四歳の世継に期待をかけるのも家臣たちとしても致し方はなかろう。
 家老であった脇坂倉之助は三年前に自ら望んで黎次郎の守役となり、家老職を退いた。
 泰雅としては脇坂ほどの人物は他に見当たらぬと思っていたゆえ、ひとたびは辞職願を預かり置くという処置を取った。黎次郎の守役と家老職を兼任しても構わぬとも言ったのだけれど、脇坂は辞退した。

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