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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第29章 岐路(みち)

―世継の若君さまのご養育と家老の重職の双方をあい務めるのは、それがしには荷が重すぎまする。
 今後は若君さまのご養育のみに専念し、残る己れの生涯のすべてを黎次郎を一人前のもののふ、榊原家の跡取りとして恥ずかしくない男に育て上げることに注ぎたいのだと言った。
 三年前、黎次郎をここに迎えにきた脇坂と泉水との間でどのような約束が交わされたのかは知らない。脇坂はただ命じたとおり、黎次郎のみを連れ帰った。
 だが、恐らく脇坂は泉水に黎次郎を必ずや一人前の武士に育てると誓ったに違いない。そう約束したからこそ、泉水は愛盛りの黎次郎を断腸の想いで手離したのではないか。
 その約束を脇坂は律儀に守り続けている。いかにも、あの男らしいやり方だ。冷徹な能吏といった面を持つ一方、脇坂はあれで存外に情が厚い。あの男になら、黎次郎を任せても大丈夫だ。いまだに逃げた女房の面影を追いかけ、飲んだくれてばかりいる父親が育てるよりは、よほど良い。脇坂は信頼するに足る男だ。
―泉水。
 泰雅は心の中で、いかにしても忘れ得ぬ女の名を呼んだ。
 はるか空の彼方で雲雀の声が響き渡る。春の風が吹くと、杏子の花がはらはらと風に舞い、水面へと吸い込まれる。杏子の花びらが音もなく降り、水面を薄紅に埋めてゆく。泰雅はしばし眼を細めて山の春の光景を眺めていた。
 そのまま何とはなしに誘われるように、ぶらぶらと歩いてみる。川を横目に見ながら、なだからな坂道を登ってゆくと、急に眼の前がひらけた。一面にひろがる菜の花―、眼にも鮮やかな黄色が泰雅の眼を眩しく射た。
 そこで、泰雅は信じられぬ光景を見た。
 その女人はさながら、天上から現世に降り立った天人のようにすら思えた。
 泰雅は息を呑んで、その光景を見つめていた。墨染めの衣に身を包んだほっそりとした尼が菜の花を微笑んで眺めている。
 穏やかな微笑を含んだまなざし。三年という年月を経て、幾分すっきりとした、大人びた輪郭の横顔は、紛れもなく泉水であった。地味な法衣が、かえって浄らかな尼の美貌をいっそう際立たせ、匂いやかな色香さえ漂わせている。

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