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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第29章 岐路(みち)

 男に媚びることの一切ない清々しさが尼の浄らかさから感じられた。尼は一面にひろがる黄色い花を見つめいる中に、ふと花の絨毯の上を飛ぶ一羽の蝶に眼を止めた。その花の色をそのまま写し取ったかのような鮮やかな黄色の蝶を、優しげな慈しみに溢れた眼で追っている。
 泰雅は、自分でも知らぬ中に一歩踏み出していた。地面に落ちた枯れ枝を踏みしだくその音に、うら若き尼がハッとした表情で振り向く。
 視線が吸い寄せられるように動く。まなざしとまなざしが交わったその一瞬、尼の顔から微笑みが消える。烈しい驚愕がすっかり大人びた顔にひろがる。
 尼の顔色が変わった。それだけは昔と変わらぬ黒い大きな瞳を見開き、まるで凍りついたように泰雅を見ている。その見開かれた双眸には強い怯えの色が浮かんでいた。
 随分と愕いたらしく、尼の白い手から籠が落ちる。大切そうに両手で抱えていた籠が音を立てて転がり、中に入っていた山菜が一面に散らばった。
 尼が衣の裾を翻す。
 泰雅は逃すまいと尼を追いかけた。
 尼が懸命に走る。だが、か弱い女の脚では敵うはずもない。しかも、動きにくい法衣を着ていれば、尚更だ。泰雅は直に追いつき、その手を捕らえた。
「泉水」
 泰雅は一体、何をどう言えば良いのかすら判らなかった。まさか、このような場所で泉水に逢えるとは考えてもいなかったのだ。
 この時、ひとたびは無理に奥底に封じ込めようとしていた泉水への想いに火が付いた。
 もう、離せない、離さない。
 二度と、この女を離したりするものか。
 自分がこの女に逢えなかった四年間、一体、どうやって過ごしていたのかすら忘れていた。泉水なしで毎日を過ごしていたことが、今更ながらに信じられなかった。
 いや―、この女と離れて暮らした日々は、泰雅にとっては到底生きているとは言えぬものであった。まるで自分を取り巻くすべての世界が色を失ったような、白と黒だけで塗り込められた灰色の世界に生きていたような気がする。
 生きて、確かに呼吸はしているのに、自分が生きているのだという実感が全く湧かなかった。ただ機械的に動き、喋り、すべての動作を無意識の中にこなしていたように思う。

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