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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第29章 岐路(みち)

 恐らく、この三年間というもの、泰雅の心は死んでいたのに相違ない。泉水のおらぬ淋しさを忘れるために、毎日酒を浴びるように呑んだ。だが、幾ら呑んでもいっかな酔いは訪れず、むしろ呑めば呑むほどに心はしんと醒め、心は虚ろになった。そうやって、次第に酒量は増え、泰雅の身体は酒の毒に冒されていったのだ。
「逢いたかった」
 そのたったひと言が何より、泰雅の心を象徴していた。だが。
 尼姿の泉水は美しい面に怯えを滲ませ、泰雅をまるで幽鬼でも見るかのような顔で見つめている。が、泉水と再会できた歓びに我を忘れる泰雅には、泉水の恐怖に強ばった表情に気を払うゆとりはない。
「そなたを忘れられぬのだ、いかにしても―、他の女を抱いて気を紛らわせようとしても、どうにもならぬ。そなたでなければ駄目なのだ。他の女ならば一時の欲望を満たすことはできても、けして心まで充足はできぬ。泉水を抱きたい、俺に抱かれたときの泉水の切なそうな表情(かお)や声をもう一度、この眼で、手で確かめたいのだ。お願いだ、俺と一緒に来てくれ、帰ってきてはくれぬか」
 泉水は愕然として眼前の男を見つめた。衝撃のあまり、男の言葉さえ理解することができなくなっていた。すべての神経が麻痺しているようだ。
 この男は何を言っているのだろう。せわしなく喋っているようだが、泉水には男の言葉が何の意味を持たなかった。ただ口を動かしているだけのように見え、言葉は耳を素通りしてゆく。だが、意味は判らずとも、何かおぞましいことを口にしていることだけは本能的に判った。
 突如として、男の言葉が意味をもって、耳に飛び込んでくる。
―他の女ならば一時の欲望を満たすことはできても、けして心まで充足はできぬ。泉水を抱きたい、俺に抱かれたときの泉水の切なそうな表情(かお)や声をもう一度、この眼で、手で確かめたいのだ。
 あまりの忌まわしき言葉に、泉水は両手で耳を塞いだ。
「止めて―、止めて下さい。そんな話、聞きたくありません」
 泉水は烈しく首を振りながら、抗議の声を上げる。それは殆ど悲鳴に近かった。

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