
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第29章 岐路(みち)
「待て」
泰雅は叫び、次の言葉を呑み込んだ。
―待ってくれ。行かないでくれ。
泉水はまるで心ない猟師から逃れる野兎のように、一心に走り去った。直にそのか細い後ろ姿は山道の向こうに消え、見えなくなった。
泰雅は茫然として、尼の姿が消えた方を見つめていた。泉水のいた場所に、竹籠が転がっている。まるで籠だけがぽつんと取り残されたように落ちていた。
自分の手を改めて眺めてみる。確かにこの手は惚れた女の身体を抱きしめたのに、まだ、あのやわらかな膚の感触を憶えているのに、女は蝶が飛び立つように泰雅の手をふりほどいて逃げた。
泉水は本当に綺麗になっていた。昔はまだ稚さを残していた愛らしい顔は可憐さはそのままに、臈長けた大人の女を感じさせるものになっている。地味な鈍色の衣を身に纏っていても、二十三歳という女盛りの色香が法衣の下から滲み出ているかのようであった。
―泉水。お前は俺をそこまで嫌うのか。
泰雅は暗澹とした想いを抱え、いつまでもその場に立ち尽くしていた。菜の花が春の風に揺れている。時折聞こえる雲雀の声が先刻までとは違って、ひどく遠く、場違いなものに思えた。
泰雅は叫び、次の言葉を呑み込んだ。
―待ってくれ。行かないでくれ。
泉水はまるで心ない猟師から逃れる野兎のように、一心に走り去った。直にそのか細い後ろ姿は山道の向こうに消え、見えなくなった。
泰雅は茫然として、尼の姿が消えた方を見つめていた。泉水のいた場所に、竹籠が転がっている。まるで籠だけがぽつんと取り残されたように落ちていた。
自分の手を改めて眺めてみる。確かにこの手は惚れた女の身体を抱きしめたのに、まだ、あのやわらかな膚の感触を憶えているのに、女は蝶が飛び立つように泰雅の手をふりほどいて逃げた。
泉水は本当に綺麗になっていた。昔はまだ稚さを残していた愛らしい顔は可憐さはそのままに、臈長けた大人の女を感じさせるものになっている。地味な鈍色の衣を身に纏っていても、二十三歳という女盛りの色香が法衣の下から滲み出ているかのようであった。
―泉水。お前は俺をそこまで嫌うのか。
泰雅は暗澹とした想いを抱え、いつまでもその場に立ち尽くしていた。菜の花が春の風に揺れている。時折聞こえる雲雀の声が先刻までとは違って、ひどく遠く、場違いなものに思えた。
