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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第29章 岐路(みち)

 泉水は懸命に走った。少しでも立ち止まれば、泰雅が追いかけてくるような気がして、走りに走った。長い石段も駆け上がり、漸く山門が見えてきたときには安堵の涙が湧いた。走り続けたため、寺に着いた時、荒い息を吐いていた。それでも、何とか窮地を逃れ得たのだと思えば、身体中の力が一挙に抜け出るようで、山門をくぐるなり、へなへなとその場にくずおれた。
 それにしても、何故、泰雅がこのような場所にいるのか。烈しい愕きと戸惑い、次いで恐怖が押し寄せる。寺に帰り着いても、しばらくは身体の震えが止まらなかった。
 泉水が膝を抱えて震えていると、傍を伊左久が通りかかった。
「どうした、えらく遅かったな」
 どうやら、伊左久は起き出したらしい。今年の正月に光照が伊左久のために仕立ててやった新しい着物を着ている。いつもなら、まだ寝ていなければ駄目だと文句を言うところだが、今は到底それどころではなかった。
「蓮照さん?」
 落飾してからは伊左久も泉水を〝蓮照さん〟と呼ぶようになった。伊左久が訝しげに泉水を見る。
 泉水は緩慢な動作で立ち上がった。
 無意識の中に乱れた襟許をかき合わせる。
「何でもありません」
 やっとそれだけを言う。
「だが、到底、何でもねえという顔じゃないぞ」
 伊左久は、強ばったままの泉水の横顔を見つめ、それと判らないほどかすかに眉をひそめた。
 泉水は伊左久の不審げな顔にも気付かぬ風で、軽く頭を下げて伊左久の前を通り過ぎた。
「おい、蓮照さん」
 伊左久は大声で泉水を呼んだが、泉水は知らぬふりを装い、急いで自分の部屋に戻った。
 今は一人になりたかった。一人になって、心を落ち着かせたい。
 逃げるように寺に入っていった泉水を見て、伊左久は更にきつく眉根を寄せた。
 泉水の身に何かあったのは疑いようもなかった。恐らくは山菜摘みにゆくと言って出かけたほんの一刻余りの間に、何かが起こったに相違ない。
 あの怯え様は尋常ではない。泉水自身は気付いてはおらぬかもしれないけれど、顔色は真っ青で、まだ震えていたではないか!

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