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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第29章 岐路(みち)

 おまけに、いつもはきっちりと着ている法衣の襟許や頭巾が乱れていた。考えたくもないことだが、あれは―、誰かに乱暴されかけた痕跡ではないか。
 伊左久の中に閃くものがあった。
 泉水がこの寺に流れ着くきっかけとなった原因は男にあると聞いた。この寺に棲みつくようになった当初、伊左久は泉水がここに来た理由を知らなかったが、大方は男から逃れてきたのだろうと見当をつけていた。この世の修羅場の数々を見てきた伊左久には、そういったことを見抜く勘が備わっている。事実、その推量は間違ってはいなかった。
 後に、伊左久は泉水当人から良人と別れてここに来たのだと打ち明けられている。むろん、詳しいこと―氏素性などは一切語らなかったけれど、良人に黙って家を出たのだと言っていた。
 もしや、泉水は山菜摘みに出かけている間に、その男―良人に出くわしたのではないだろうか。その男がここまで泉水を追いかけてきたのだとしたら。男が逃げた女を取り戻そうとしているのは明らかだ。
「こいつは放ってはおけねえ。庵主さまにも知らせておいた方が良さそうだな」
 伊左久は呟くと、痛む左脚を引きずりながら寺の中に消えていった。

 泉水は廊下を歩きながら、小さな息をついた。思いがけず泰雅に山野で出逢ってから十日近くが経っている。あの後、二、三日は泰雅の影に怯えて暮らしていたのだが、心配していたようなことは何も起こらず、普段と同じ穏やかな刻が過ぎていった。泰雅は追いかけてもこなかったし、朝、川に水汲みに行くときにあの菜の花畑の傍を通っても、二度と泰雅に出逢うことはなかった。
 とはいえ、極力、用事のあるとき以外は寺の外に出ないように気をつけてはいるのだけれど。
 それにしても、光照がこのような夜にわざわざ呼び出すとは珍しい。尼寺の夜は早い。夜明け前には起床するゆえ、当然ながら、夜は早くに床に入る習慣になっている。また、それは灯火の節約のためでもあった。
 従って、早めの夕餉を終えた後は、皆、自室に下がり思い思いに過ごすことが多いのだ。修行や雑務に追われる厳しい生活の中で唯一、自由に過ごせる貴重な時間帯でもある。
 泉水は光照の部屋の前で控え目に声をかけた。

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