
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第29章 岐路(みち)
光照がほろ苦く微笑した。
「偶然とはいえ、皮肉なものです。この山を含めた山向こうの村の幾つかは代々、江戸の榊原氏の領地なのですよ。これが我らには何の関わりもなきお方の申し出であれば良かったのですが、仮にも領主ともなれば、領内の寺の存続について口を出すことは可能ですからね」
泉水は言葉を失った。榊原家が領地を拝領していることは知っている。しかし、泰雅が度々視察に出かけ、意欲的に政を行おうとしていたのは確か全く別の土地であったはずだ。考えに沈む泉水に、光照が判り易く説明してくれた。光照の話によれば、泉水が最初に隠れ住んでいた村は、この山のふもとであるにも拘わらず泰雅の領地ではないが、あの村を境として、この山と山向こうが榊原家が代々治めてきた土地なのだという。
「されど、蓮照がそのようなことを気に病む必要は全くありませぬ。私が従うのは御仏と我が心のみ。たとえ、どのように偉い、やんごとなき方の御意であろうと、我が意に添わぬご命令には従いません。仮にも神君家康公の頃から続いてきた名門榊原氏のご当主が権力に物言わせてそのようなご無体をなされるとは、信じられませぬ。それもひとたびは御仏の道に入りし尼僧を差し出せとは、何という浅はかな。あまりの好き者ぶりに膚が粟立つ心地がします」
光照は毅然として言い放つ。だが、泉水は何と応えて良いかさえ判らないでいた。
まさか、泰雅がここまで横暴な態度に出るとは流石に思いもしなかった。様々な想いが泉水の中でせめぎ合った。
泰雅の許には二度と戻りたくない。もう、あんな辛く哀しい想いはしたくない。それが、泉水の本音だ。夜が来る度に、死んでしまいたいと思うほどの屈辱に耐えねばならない。あんな生活に戻るくらいなら、本当に生命を絶ってしまった方がマシだ。
しかし、泉水が生命を絶ったからとて、泰雅は納得はすまい。ここまで強引なやり方を通そうとするからには、泉水が勝手に自害でもすれば、怒りのあまり、本当にこの月照庵を潰してしまうかもしれない。そんなことはさせられない。光照には言葉には言い表せないほどの恩義がある。その深い恩を仇で返すようなことにだけは、なってはならない。
とすれば、泉水が取るべき道はただ一つ。
光照にも、この寺にも迷惑をかけぬようにすることしかない。
「偶然とはいえ、皮肉なものです。この山を含めた山向こうの村の幾つかは代々、江戸の榊原氏の領地なのですよ。これが我らには何の関わりもなきお方の申し出であれば良かったのですが、仮にも領主ともなれば、領内の寺の存続について口を出すことは可能ですからね」
泉水は言葉を失った。榊原家が領地を拝領していることは知っている。しかし、泰雅が度々視察に出かけ、意欲的に政を行おうとしていたのは確か全く別の土地であったはずだ。考えに沈む泉水に、光照が判り易く説明してくれた。光照の話によれば、泉水が最初に隠れ住んでいた村は、この山のふもとであるにも拘わらず泰雅の領地ではないが、あの村を境として、この山と山向こうが榊原家が代々治めてきた土地なのだという。
「されど、蓮照がそのようなことを気に病む必要は全くありませぬ。私が従うのは御仏と我が心のみ。たとえ、どのように偉い、やんごとなき方の御意であろうと、我が意に添わぬご命令には従いません。仮にも神君家康公の頃から続いてきた名門榊原氏のご当主が権力に物言わせてそのようなご無体をなされるとは、信じられませぬ。それもひとたびは御仏の道に入りし尼僧を差し出せとは、何という浅はかな。あまりの好き者ぶりに膚が粟立つ心地がします」
光照は毅然として言い放つ。だが、泉水は何と応えて良いかさえ判らないでいた。
まさか、泰雅がここまで横暴な態度に出るとは流石に思いもしなかった。様々な想いが泉水の中でせめぎ合った。
泰雅の許には二度と戻りたくない。もう、あんな辛く哀しい想いはしたくない。それが、泉水の本音だ。夜が来る度に、死んでしまいたいと思うほどの屈辱に耐えねばならない。あんな生活に戻るくらいなら、本当に生命を絶ってしまった方がマシだ。
しかし、泉水が生命を絶ったからとて、泰雅は納得はすまい。ここまで強引なやり方を通そうとするからには、泉水が勝手に自害でもすれば、怒りのあまり、本当にこの月照庵を潰してしまうかもしれない。そんなことはさせられない。光照には言葉には言い表せないほどの恩義がある。その深い恩を仇で返すようなことにだけは、なってはならない。
とすれば、泉水が取るべき道はただ一つ。
光照にも、この寺にも迷惑をかけぬようにすることしかない。
