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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第4章 《新たな始まり》

 愛する男に抱かれて、その胸で男の鼓動を聞く―、女にとってはこの上ない至福の一瞬のはずなのに、何故か素直に歓べない。ひたひたと押し寄せるこの得体の知れぬ不安は何なのだろう。
 泉水は泰雅の身体を掴んで、烈しく揺さぶりたい衝動に駆られた。
―殿、殿は何をお考えになっておられるのでござりますか?
 確かに、泰雅は泉水を変えた。何も知らぬ無垢な娘から烈しい恋を知る女へと。
 泰雅が自分を必要としてくれているのは判る。だが、泉水には泰雅の考えが今一つ理解できないでいた。泰雅が必要なのが本当に泉水という一人の人間なのか、生涯を共にする妻なのか。それとも、単に“妻”という名目の夜伽の相手なのか。泰雅を信じようとは思っても、自分のような取り立てて美しくも聡明でもない女が泰雅ほどの男を長い間つなぎ止めておけるとは思えないのだ。
 泰雅の係わり合ってきた女は、泉水には想像もできないほどの数に相違なく、その中には到底泉水が太刀打ちできないほどの美貌の女もいれば、利口な女も―下世話な言い方をすれば、男を愉しませるすべに長けた女もいただろう。そんな女たちに比べれば、泉水なぞ所詮、世間知らずの我が儘娘で、男女のこともろくに知らず、泰雅には物足りないにちがいないのだ。
 今は泰雅も泉水が目新しいから傍に置いているものの、いずれ飽きればまた別の女の許へと離れていってしまうのではないか。そんな不安が常に心のどこかにわだかまっている。
 泉水は怖ろしくてならなかった。泰雅によって変わった自分、ある意味で変えられた自分がこれより先、もし泰雅を失った時、その空虚さに孤独や淋しさに耐えられるかという問題であった。泰雅を本気で愛してしまった自分は、泰雅の愛を奪った女を憎み、妬むに相違ない。もしかしたら、昔呼んだ「源氏物語」の六条御息所のように生きすだまとなり果て、泰雅やその女を呪い殺そうとするかもしれない。
 そんな風になるくらいなら、いっそのこと生命を絶った方がマシだ。
 本当の恋を知ってしまった今、もう恋を手放すことはできない。泰雅をどこにも行かせたくない。でも、人の心を、殊に泰雅のような恋多き男の心を永遠に独り占めすることなど、できはしないのだ。

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