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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第31章 反旗

《巻の弐―反旗―》

 半月が銀色に輝く宵のことである。蒼白い月が玲瓏とした光を放ち、地上のすべてのものをどこか幻想的に映し出していた。庭の小石一つ、漸く散り始めた緋桜までもが冴え冴えとした月の光に濡れ、淡く発光しているかのように見える。
 河嶋から還俗の話を聞いた二日後、泉水の許に初めて泰雅のお渡りがあった。泉水がこの屋敷に戻って、既に八日が過ぎている。
 泉水は以前のように、寝所で泰雅の訪れを待った。整然とのべられた夜具の傍らに端座する泉水は両眼を瞑っている。それはひと目見ただけでは、浄らかな尼僧が瞑想に耽っているかのような静謐な表情であった。ただ、純白の寝間着に紅い帯を前に結んで長く垂らした寝衣姿は泰雅の閨に侍るときの姿である。
 元々、正室、側室の区別なく夜伽を務める際にはこの姿であったのだが、泉水はこの紅い帯をたいそう嫌った。いかにもあだめいて、まるで膚を売る遊び女のようだとむずかり、泉水は特に寝衣の帯も石竹色の目立たないものを選んだのだ。
 だが、今回はそれも許されなかった。緋色の帯を前結びにし、だらりと流した姿はそれこそ本当の側妾のようだと思えば、余計に辛く情けない想いになる。剃ることを忘れた頭髪はまだわずかに伸びただけに過ぎず、まるで破壊尼のようだ。到底頭巾を取れたものではない。今夜は河嶋が用意した髢(かもじ)(鬘(かつら))を被り、どうにか体裁を整えているという有り様であった。
 その姿は、どこから見ても、これから男と閨を共にしようとする妖艶な女人であったが、その静まり返った面輪だけがこの場の雰囲気にはそぐわない。
 今回の夜伽に関しても、脇坂倉之助は〝法体からせめて俗世の形整わぬ中は、あまりにも残酷〟と、泰雅に進言したのである。
 それは何も脇坂に限っただけではない。榊原家に仕える家臣や奥向きに仕える腰元たちの大方の意見でもあった。最初、泰雅が正式な還俗の儀も執り行わず、泉水に夜伽をさせると言い出したときには、河嶋も脇坂も控えめながら断固として異を唱えた。
 せめて剃髪した髪が伸び、俗界の人としての姿形だけが上辺だけでも整うのを待つように諫めたが、聞く耳を持たなかった。
 満開の桜を描き出した襖が静かに開く。
 泉水は両手をつかえた。

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