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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第31章 反旗

 泉水は、ひと息に言ってのけた。
 かつてまだ山の庵にいた時、泉水は突如として泰雅から江戸に戻るようにと言い渡された。しかも、泰雅は月照庵の存続と泉水の身柄を引き替えにするという卑劣な交換条件を示した。あの時―、泰雅の申し出を受けると決めた時、けして運命に流されるままではなく、男の言うなりになるだけではなく、流されたその先で女の意地を見せてやるのだ固く決意した。
 我が身が流れ流されてゆく先がどこなのか、そこに何が待ち受けているのか。必ず見届けてやると誓ったのだ。
―何の力も持たぬ女にも幾ばくかの誇りと意地があるのだと見せつけてやる!!
 そう思い定めたはずである。
 泉水は今、まさにあの瞬間の気持ちを思い起こしていた。
「ホウ、その方はこの俺を脅そうというのか?」
 泰雅が口の端を引き上げる。何とも陰惨な笑いを浮かべたその容貌は、なまじ整っているだけに凄みさえある。泰雅は下卑た笑いを刻んでいた。その顔には、見下したような表情があからさまに浮かんでいる。
「いいえ、脅しなどではございませぬ」
 泉水は艶な微笑を浮かべたまま、きっぱりと言った。
 寝衣の懐からすっと懐剣を取り出す。
 それは、時橋の形見の品でもあった。時橋の死後、身の回りの遺品を片付けていた時、ひとふりの懐剣を見つけた。それは武家の女子が持つ護身用の刀であった。時橋はいつもその懐剣を懐深く忍ばせていたのだ。
 その他の品々―とはいっても、榊原の屋敷を夢五郎の手引きでひそかに脱出した時橋は殆ど何も持ち出してはいなかった―、わずかな着物や簪類などは江戸にいる時橋の三人の娘たちに送ってやった。泉水が形見として譲り受けたのは、その懐剣のみである。
 朱塗りのその短剣を泉水はスと鞘から抜いた。枕許の行灯の火を受け、刃が煌めく。
 しばらくその煌めきを見つめた後、泉水は鞘に元どおりに納めた。
「殿がどうしても我が願いをお聞き入れしては下さらぬというのであれば、どうか、ひと想いに殺して下さりませ。生き存えて、おめおめと辱めを受けるよりは死を選ぶ方がはるかに気が楽というもの。この生命なぞ惜しくはございませぬ」
 泉水は断じると、時橋の形見の懐剣を手前に置いた。

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