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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第31章 反旗

 泰雅の脳裡に、一つの光景が蘇る。
 もう五年前にはなるだろう。泉水が突如としてこの屋敷から出奔したひと月後、泰雅は江戸から離れた小さな農村に泉水が身を潜めていることを知った。恋しさに耐えかね、矢も楯もたまらず馬を駆り、泉水に逢いにいった。当時、泰雅がひそかに放った密偵からの報告では、泉水は村の若い男と深間になっているとのことであった。
 それでもなお、泰雅は泉水への恋慕の情を抑えられなかった。泉水さえ戻ると言えば、快く許し江戸に連れ帰ろうと思っていたのだ。だが、泉水は、あの女は帰らないと言ったばかりか、情夫を庇った。憤懣やる方ない泰雅に、それで泰雅の気が済むならばと、あっさりと生命を差し出したのである。
―もとより、この生命一つなぞ惜しいとは思うてはおりませぬ。私をお斬りになられることで殿のお気がお済みになるのであれば、どうぞひと想いにお斬りなされませ。
 そう言って、細首を差し伸べたのだ。
 あのときの愕きと衝撃、怒りは言葉には言い表せない。泰雅の怒りに怯え、泣いて許しを請うものだとばかり思っていたら、江戸に戻って以前の暮らしに戻るよりは、ここで死んだ方が良いのだと言い切った。だから、ひと想いに殺せ、と。
 あのひと言が泰雅の辛うじて保っていた理性の糸を断ち切ってしまったに相違ない。怒りと嫉妬のあまり我を忘れ激情に駆られ、泰雅は泉水を手込めにした。一晩中、さんざん陵辱した挙げ句、失神してぐったりと横たわっている泉水一人を残し、自分は江戸に戻った。むろん、すぐに迎えをよこすつもりではあったのだが―。
 あのときと全く同じであった。泉水は今も泰雅を生命を賭けて拒もうとしている。
―あのときも、お前は俺を生命賭けて拒んだな。
 泰雅の心に言い知れぬ寂寥感が湧く。泉水への恋情が烈しく燃え盛れば燃え盛るほど、逆に泉水の心は泰雅から離れてゆく。
「どうやら、俺はとことんまで、そなたに嫌われていたようだ。そなたの気持ちはあのときと全く変わってはおらぬようだな」
 泉水にその科白の意味―、〝あのとき〟がそもいつを指すのか理解できたのかどうか。
 泰雅には判らない。しかし、もう何もかもがどうでも良くなっていた。かつて愛し合い、あんなにも近くにいて幸せな恋人、或いは夫婦として暮らしていた二人は、こんなにも遠く隔てられてしまった。

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