
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第31章 反旗
泉水が立ち上がる。どこに行くというのか、襖に手をかけたそのままの姿勢でつと振り返る。
「殿、今宵はこれにて失礼させて頂きまする」
冷たい一瞥を投げる。襖が静かに開き、泉水の華奢な後ろ姿は襖の向こうへと消えた。
泰雅は愕然とした。氷のような微笑を浮かべたその美貌は妖艶さが漂い、冷ややかでいながら色香溢れるまなざしは見る者の心まで凍らせるような、それでいて、見る者の魂を奪い去ってゆくような魅惑的なものであった。
囚われ人のはずの泉水がこのような夜更けに一体、どこに行くというのか。
主は自分のはずだ。この屋敷の主は自分だというのに、泉水はまるで我が身こそが主人だとでもいうかのような態度で、泰雅の命を待つわけでもなく自らの意思で閨を出てゆく。
「待て、待ってくれ、行かないでくれ」
―俺を置いてゆくな、一人にするな。
泰雅は続く言葉を辛うじて呑み込んだ。
茫然と閉じられた襖を見つめていた泰雅は、慌てて手を差し伸べた。しかし、閉じられたままの襖が二度と開くことはない。
泰雅は立ち上がろうとして、がっくりとその場に膝をつく。誰かに命じて、泉水を連れ戻すこともできたが、今の彼には最早、それを命ずるだけの気力はなかった。
ただ彼を拒絶した冷たい美貌の女の面影が強く灼きついて離れなかった。
伸ばしたままの手が虚しく空を掴む。泰雅はその手を力なく下ろした。
そう、過ぐる日、山野で山菜摘みをする泉水に五年ぶりに再会したあの時、既に応えは判っていだはずだった。
確か、あのときも泰雅は言った。
―待ってくれ、行かないでくれ。
だが、泉水は泰雅を怯えを宿した瞳(め)で見つめるばかりで、すぐに逃げるように走り去った。
もう、自分たちはおしまいなのだと、あの時、既に泰雅は知っていたはずだ。それなのに、真実を認めてしまえば、泉水と自分との関係が本当に終わってしまうような気がして。これまで敢えて眼を背けていたのだ。
―もう、これでおしまいか。
終わった、という想いが泰雅の胸をかすめてゆく。
山野で再会した日も、五年間に遡って、家を出た泉水を追ってあの小さな村ま馬を飛ばした夜も、泉水は泰雅をこれ以上はないというほどにきっぱりと拒絶した。
「殿、今宵はこれにて失礼させて頂きまする」
冷たい一瞥を投げる。襖が静かに開き、泉水の華奢な後ろ姿は襖の向こうへと消えた。
泰雅は愕然とした。氷のような微笑を浮かべたその美貌は妖艶さが漂い、冷ややかでいながら色香溢れるまなざしは見る者の心まで凍らせるような、それでいて、見る者の魂を奪い去ってゆくような魅惑的なものであった。
囚われ人のはずの泉水がこのような夜更けに一体、どこに行くというのか。
主は自分のはずだ。この屋敷の主は自分だというのに、泉水はまるで我が身こそが主人だとでもいうかのような態度で、泰雅の命を待つわけでもなく自らの意思で閨を出てゆく。
「待て、待ってくれ、行かないでくれ」
―俺を置いてゆくな、一人にするな。
泰雅は続く言葉を辛うじて呑み込んだ。
茫然と閉じられた襖を見つめていた泰雅は、慌てて手を差し伸べた。しかし、閉じられたままの襖が二度と開くことはない。
泰雅は立ち上がろうとして、がっくりとその場に膝をつく。誰かに命じて、泉水を連れ戻すこともできたが、今の彼には最早、それを命ずるだけの気力はなかった。
ただ彼を拒絶した冷たい美貌の女の面影が強く灼きついて離れなかった。
伸ばしたままの手が虚しく空を掴む。泰雅はその手を力なく下ろした。
そう、過ぐる日、山野で山菜摘みをする泉水に五年ぶりに再会したあの時、既に応えは判っていだはずだった。
確か、あのときも泰雅は言った。
―待ってくれ、行かないでくれ。
だが、泉水は泰雅を怯えを宿した瞳(め)で見つめるばかりで、すぐに逃げるように走り去った。
もう、自分たちはおしまいなのだと、あの時、既に泰雅は知っていたはずだ。それなのに、真実を認めてしまえば、泉水と自分との関係が本当に終わってしまうような気がして。これまで敢えて眼を背けていたのだ。
―もう、これでおしまいか。
終わった、という想いが泰雅の胸をかすめてゆく。
山野で再会した日も、五年間に遡って、家を出た泉水を追ってあの小さな村ま馬を飛ばした夜も、泉水は泰雅をこれ以上はないというほどにきっぱりと拒絶した。
