
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第31章 反旗
そう我が眼を疑わずにはおれぬほど、華奢な立ち姿には色香溢れていた。白一色の中で帯だけが紅いのが、更にその艶麗さを際立たせている。お寝間姿は白鷺を彷彿とさせるほど可憐で頼りなげなのに、紅を引いたその面立ちは月から降り立ったばかりの月の姫のように神々しくも艶やかだ。
女の河嶋でさえ一瞬、眼を奪われたほどの妖艶さであった。今宵、哀れな泰雅が再び、この美しくも可憐な妻に幻惑されたのは疑いようもない。
茫然とする河嶋の前を泉水は悠々と通り過ぎる。ハッと我に返った河嶋がそっと寝所の方を窺ってみても、特に何か変事があったとは思えない。河嶋はここは何事もなかったように朝まで穏便に過ごすことが肝要と判断した。見苦しく騒ぎ立てれば、泉水が寝所から早々にいなくなってしまったことを他の者たちに知られてしまう。そうなれば、余計な憶測を生むばかりか、泰雅の体面にも拘わる。河嶋は共に宿直を務める今一人の若い腰元にも他言は無用と十分に口止めをした。
河嶋の咄嗟の機転のお陰で、泉水は、そのまま廊下に出ることができた。
あれほど煌々と輝いていた月が雲に閉ざされている。ぬばたまの闇の底に沈んだ庭は、不気味なほどの静寂に満たされていた。
ふっと、視界を白いものがよぎる。
どこからか花の香りらしい、かぐわしい匂いが風に運ばれてくる。
何かと眼を凝らしてみると、白い花が一輪、片隅にひそやかに花開いている。たった一輪だけではあったが、その存在感を主張するかのように艶やかに見事に咲き誇っていた。牡丹のようにも見えるその花の上を戯れるかのように蒼い蝶がひらひらと飛んでいる。まるで現(うつつ)ならぬ世界のもののように魅惑的な光景であった。
白い花が、蝶が手招きしているような気がして、泉水はついふらふらと吸い寄せられるように近付いてゆく。
―おいで、おいで。ここに来れば、哀しみも忘れられる。すべての苦しみから解き放たれ、楽になれるのだよ。
見えない誰かがしきりに囁いている。
ふいに、白い花が女人になった。
白い着物を着て、優しげな微笑を浮かべているのは―。
「時橋ッ」
泉水は夢中で懐かしい名を呼ぶ。
女の河嶋でさえ一瞬、眼を奪われたほどの妖艶さであった。今宵、哀れな泰雅が再び、この美しくも可憐な妻に幻惑されたのは疑いようもない。
茫然とする河嶋の前を泉水は悠々と通り過ぎる。ハッと我に返った河嶋がそっと寝所の方を窺ってみても、特に何か変事があったとは思えない。河嶋はここは何事もなかったように朝まで穏便に過ごすことが肝要と判断した。見苦しく騒ぎ立てれば、泉水が寝所から早々にいなくなってしまったことを他の者たちに知られてしまう。そうなれば、余計な憶測を生むばかりか、泰雅の体面にも拘わる。河嶋は共に宿直を務める今一人の若い腰元にも他言は無用と十分に口止めをした。
河嶋の咄嗟の機転のお陰で、泉水は、そのまま廊下に出ることができた。
あれほど煌々と輝いていた月が雲に閉ざされている。ぬばたまの闇の底に沈んだ庭は、不気味なほどの静寂に満たされていた。
ふっと、視界を白いものがよぎる。
どこからか花の香りらしい、かぐわしい匂いが風に運ばれてくる。
何かと眼を凝らしてみると、白い花が一輪、片隅にひそやかに花開いている。たった一輪だけではあったが、その存在感を主張するかのように艶やかに見事に咲き誇っていた。牡丹のようにも見えるその花の上を戯れるかのように蒼い蝶がひらひらと飛んでいる。まるで現(うつつ)ならぬ世界のもののように魅惑的な光景であった。
白い花が、蝶が手招きしているような気がして、泉水はついふらふらと吸い寄せられるように近付いてゆく。
―おいで、おいで。ここに来れば、哀しみも忘れられる。すべての苦しみから解き放たれ、楽になれるのだよ。
見えない誰かがしきりに囁いている。
ふいに、白い花が女人になった。
白い着物を着て、優しげな微笑を浮かべているのは―。
「時橋ッ」
泉水は夢中で懐かしい名を呼ぶ。
