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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第31章 反旗

 いつでも、どんなときでも、泉水の味方であり続けた母とも呼べるひと。時橋に逢いたかった。ずっと、ずっと逢いたいと思っていた。
「時橋、待っていて、私もすぐにそこに行くから」
 呟き、脚を踏み出そうとしたその時。
 突如として、視界が明るくなった。雲に隠れていた月が再び姿を現したのだ。
 半月が清かな光を投げかけている。
 我に戻った泉水は息を呑んだ。いつのまに庭に降りたのか、泉水は裸足で地面に立っていた。眼前にひろがる庭には、白い花などどこを探しても見当たらない。むろん、蒼い蝶も飛んでいなかった。
 ただ、泉水の足許に満々と水を湛えた人工の池が横たわっているばかりだ。そういえば、この池は存外に深く、数年前には若い奥女中が一人沈んだことがあったという。何を苦にしてのことだったのか、入水自殺であったらしいが、一説には主の泰雅に手込めにされ、それを苦にした挙げ句の自殺だとも囁かれていた。
 十六になったばかりの娘は江戸市中の呉服太物問屋の娘で、行儀見習いに御殿奉公に上がっていたのだ。事件のあったひと月後には永の暇を賜り、許婚者と祝言を挙げる予定だった。娘自身もその晴れの日を心待ちにしており、到底自害するような理由は見当たらなかったという。
 それが池に落ちた(事は事故として処理された)とされる日の夕刻、奥向きの空き部屋で若い男の声と女の悲鳴や助けを求める声が聞こえていたというのだ。その他にも帯を解く際の衣擦れの音などが洩れていたらしいから、その中で何が行われていたかは想像はできる。結局、若い腰元の死は不注意で池に落ちたゆえと発表され、その死の真相はいまだに謎だ。
 そんな話を、お付きの腰元の誰かがしていたのを改めて思い出し、泉水の膚が粟立った。
 不吉なほどに美しいあの光景が眼裏に蘇り、泉水は思わず身体を震わせた。今の幻影、いや悪夢は、若くして非業の死を遂げた娘の無念が見せたものだったのか。
 月の清らかな光に照らされ、花も蝶も時橋の姿も一瞬にしてかき消えた。
 それでも。
 たとえこの世の者ならぬ姿となった姿でも、時橋にひとめ逢いたいと願う心がどこかにある。そんな我が身の弱さがあのような美しくも怖ろしき幻影を生み出すのか。

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