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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第31章 反旗

 一体、五年の年月、月照庵で過ごした日々は何であったのか。自分の覚悟や諦念はかくも脆いものであったのだろうか。
 泉水は情けなさで一杯になる。
幻の花であったはずなのに、その華やかでありながら楚々とした姿も得も言われぬ香りも、すべてがあたかも現実に体感したような生々しい記憶となって残っている。
 夜風が池の面を渡る。
 滲んだ涙を手のひらでそっとぬぐい、漣立つ池を放心したように眺めていた。
 
 翌日から、泰雅の生活は更に荒んだものとなっていった。あの夜、閨で泉水に手厳しく撥ねつけられてからというもの、泰雅は表に顔を出すことさえなくなった。
 醜くあがき、それでもなお忘れられぬ恋しい女の面影を胸の内から消し去ろうと、泰雅はますます酒に溺れるようになった。奥向きの部屋に閉じこもりきりで、表に戻ろうともせず一日中酒ばかりを呑んでいる。
 唇から酒を涎のように滴らせて、濁ったどろりとした双眸を泳がせる様は、誰が見ても正気とは思えない。若い腰元たちは怖がり、誰一人として泰雅の側に近づきたがらない。命じられて酒を運んではくるものの、泰雅の側に置くと、すぐに逃げるようにいなくなってしまうのだった。
 それから更に十日余りを経たある夜、再び泰雅から夜伽をするようにとの達しがあった。暦は既に卯月の下旬となり、遅咲きの垂れ桜も花はすべて散り、緑眩しい葉桜となっている。
 江戸の季節は春から初夏にうつろおうとしていた。
 生まれたばかりの月が頼りなげに中天に掛かっている。その夜は珍しく、泰雅が選んだのは泉水の寝室ではなく、奥向きにある本来、夫婦が夜を過ごすはずの寝所であった。奥向きには当主がおなりの際、夜を過ごす際の寝室として、ちゃんとした部屋が元々用意されている。ここは正室だけではなく、側室とも褥を共にするための場所であった。
 しかし、泰雅はこちらを滅多に使うことはなく、殆ど妻の寝室を直接訪ねている。本来、当主が使うはずの寝所は殆ど使うことはなく過ぎていた。
 その夜、泉水は数人の奥女中に囲まれ、寝所までの長い廊下を辿った。白い寝衣に緋色の帯を前に結んで長く垂らしたは浄らかでいながら、何ともあだめいている。

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