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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第31章 反旗

 見上げて問うと、泰雅が肩を小さくすくめる。
「ホウ、そなたが俺の身体を案じてくれるのか?」
 泉水は小首を傾げるようにして、泰雅の顔を眺めた。枕辺の雪洞がほの白く閨を照らし出している。その灯りに浮かび上がる泰雅の整った貌は光線のせいだけではなく、どす黒く血の色が殆どない。心なしか、やや黄味を帯びているようにも見える。
「殿、お顔の色が悪うございます」
 それに、口にはしなかったけれど、泰雅の口調は明らかに呂律が回っていない。初めは酒量が過ぎたせいかとも思ったが、どうやら、それだけではないようだ。
 発音が不明瞭なことには触れず、それとはなしに諫言を試みる。
「あまりにご酒が過ぎるのではございませんか? お身体を壊されては元も子もございませぬ」
 泰雅の周囲には空になった銚子が何本も無造作に転がっている。どうやら、泉水が来るまでにも酒を呑んでいたらしい。
「煩いッ。説教なぞ聞きとうはないわ。素直に抱かれもせず、妻の務めを果たそうともせぬ女にそのようなときだけ女房面をされたくはないッ」
 泰雅の顔色が濃く染まっている。眉間の皺がくっきりと浮かび上がり、相当に憤っているのが判る。
 泰雅の言い分は確かに、ある意味で筋が通っている。泉水が泰雅に今更、妻としての立場で物を言えるはずもない。妻としての最も大切な務めを放棄し、泰雅を徹底的に拒絶しておきながら、今更、女房面をする資格はないだろう。
 だが。
 泉水には、泰雅の身体を憂える気持ちはある。かつては良人であり、惚れ合い、愛し合った仲の男だ。この男の側にいられるだけで良いと思った時代もあったのである。
 この顔色の悪さ、何より怪しげな物言いは尋常ではない。知らぬ顔はできなかった。
「妻ではなく、一人の人間として、申し上げております。どうか、ご酒をお控えなさって下さりませ」
 泉水が懸命な面持ちで言うと、泰雅が口の端を皮肉げに歪める。
「ならば、こういうのは、どうだ? 酒を断つ代わりに、そちが酒代わりになってくれ」
「それは―、いかなることにございましょう?」

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