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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第31章 反旗

 泉水が問うと、泰雅は嗤う。
「知れたことよ。俺が何故、酒を呑むか、そちには判らぬのか? そなたさえ素直に俺の意に従えば、俺は酒なぞ呑む必要はないのだ。そちさえ俺のものになれば、俺は酒で憂さを紛らわせる必要もない」
「殿がご酒を止められる代わりに、私に思いどおりになれ、と―?」
 語尾が震える。
「そのとおり。だが、果たして、そちにできるかな?」
 からかうような口調。裏腹に、泰雅の眼は危険な光を宿していた。
 泉水は唇を噛む。たとえ、泰雅に酒を止めさせるためとはいえ、それは、いかにしてもできないことだ。何も意地を張っているわけではない。
 男を生理的・身体的に受け容れることのできないこの身にとって、男に抱かれるのは苦痛以外の何ものでもない。一時の同情や憐憫で身を任せたとしたら、また、あの地獄のような日々がめぐってくるだけなのだ。
「たとえ上辺のみは俗世の姿に戻ろうと、心は変わらず、出家のままだと思うておりまする。御仏にお仕えする者が夜伽のお相手などできるはずがございませぬ。それでも、どうしてもとご無体を仰せになられるのなら、お好きになさいませ」
 十日前、泰雅の寝所に召された翌日から、泉水は尼姿を止めた。髢(かもじ)を付け、眼にもあやな打掛を身に纏っている。わずかに伸びかけた髪がかもじから少し覗き、それがまた臈長けた泉水の美貌に若々しい愛らしさを添えている。この髪型は〝お泉(せん)さま好み〟と呼ばれ、榊原家の奥向きでは大流行した。
 若い奥女中たちは皆、こぞって横の髪をほんの少しだけ短く切り、はらりとさりげなく垂らす。これは泉水の髪型を真似たものであった。泉水の場合は何も故意に望んでそのようにしたわけではないが、この髪型が泉水にはとてもよく似合っていたため、誰もが真似をしたがったのである。
 しかし、仮に外見だけは元に戻ろうとも、泉水の心はいまだに尼蓮照として存在している。
 泉水は小さく息を吸い込んだ。
「たとえこの身体は投げ出したとしても、それは所詮、魂のなき抜け殻、空の器のごときもの。そのようなものでよろしければ、お好きなようにご存分になされませ! 身体はいかほど欲しいままにされようと、この心だけはけして殿の思いどおりにはなりませぬ」
 ひと息に言ってのける。

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