テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第4章 《新たな始まり》

 その半月後のことである。
 既に夜も更けて、江戸の町は眠りの底に沈んでいる時分である。
 泉水の居室で、泉水は慌ただしく出かけようとする良人の着替えを手伝っていた。羽織をそっと背後から着せかけると、泰雅は背を向けたままで言った。
「今夜は遅くなると思うゆえ、そちは先に寝んでいなさい」
 泉水は不安げに泰雅を見つめた。むろん、背を向けている泰雅には、妻のそんな貌は見えない。
 今宵、泉水はいつものように泰雅に抱かれた。泰雅と泉水はほぼ毎夜のように褥を共にしている。泰雅は常と変わらぬ烈しさと優しさで泉水を愛撫し、翻弄した。
 が、何度か泰雅に貫かれた後、突如として夫婦だけで過ごす寝所の遠慮がちに声をかけてきた者があった。泉水の乳母時橋が襖越しに、表の方から家老の脇坂倉之助が泰雅を呼んでいると伝えてきたのだ。時橋は実家の槇野家から榊原家に輿入れしたときにも付き従ってきた。泉水が生誕の頃からずっと傍にいる乳母である。いわば、母代わりの存在であった。
 時橋も何事かと気遣っているらしく、声に不安を滲ませていた。泰雅はその声を聞くと、即座に床から滑り出て、身繕いを済ませて寝所を後にした。泉水もまた良人の後に続いて床を出た。
 ほどなく表から戻ってきた泰雅はただ一言出かけるとだけ言った。まるで、初めからそうなることをあらかじめ予期していたような態度で、そのことに別段狼狽えたり困惑したりしている様子は全くない。そのことに、泉水はかえって不審と不安を募らせた。
 泉水は内心の動揺を必死でひた隠しながら、気ぜわしく着替える良人に傍に控え、その着替えを甲斐甲斐しく手伝っていたのだ。
「あの―、一体何事がおありになったのでございますか?」
 泉水が遠慮がちに問うと、泰雅は珍しく眉をひそめた。それは、泉水にこの件に関しての深入りを許さないという意思表示である。
「そちには拘わりなきことじゃ。案ずるには及ばぬ。夜明けまでには戻れるとは思うが、もしや戻れぬときもあろう。心配致さず、俺の帰りを待て」
 泰雅はそれだけ言い残すと、振り向きもせずさっさと部屋を出ていった。
 泉水はその場にくずおれた。両手で顔を覆うと、低い嗚咽が洩れた。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ