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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第4章 《新たな始まり》

 傍らに控えていた時橋が言った。
「お方さま、そのようにお嘆きなさいますな。まだ夜明けまでには刻がございます。お方さまはお眠りあそばされませ」
 この家に嫁したばかりの頃は“姫さま”と実家にいた頃と同じように呼んでいた時橋であったが、晴れて泰雅と結ばれてからは“お方さま”と呼ぶようになった。初めはなかなか慣れなかったその呼ばれ様も今ではしっくりと見に馴染んできたというのに。
 泉水は小さくかぶりを振った。
「いつかこんな日が来るのではないかと思うていた」
「お方さま」
 時橋は痛ましげに泉水を見つめる。
 泉水は涙をぬぐうと、淋しげに微笑んだ。
「泰雅さまほどのお方が私のような“じゃじゃ馬”と異名を取るような女に本気のはずがないとは思うておった。殿は私のような女子が物珍しかっただけであろう。いつか飽きて、このように別の女の許にゆかれるのだと覚悟はしていたはずなのに」
「そのようなことを仰せになるものではござりませぬ。殿に他し女子がいるなぞと、まだ決まったわけではございませぬのに」
 たしなめるような口調で言うのは、乳飲み子の頃より育ててきた乳母ならではのことだ。だが、泉水は暗い眼でうつむいているばかりだ。
 この半月というもの、泰雅は夕刻になると出かけてばかりだ。黄昏刻に屋敷を出て、夜更けに帰ってくるといったことが数日に一度は続いている。最初の外出は、泉水が閨であの得体の知れぬ不安を感じた夜の翌日のことであった。
―女に死にたいと思わせるほどの悩み事の原因とは何であろうな。
 思案顔でそんなことを訊ねたあの夜から一日と経たぬ日から、泰雅の夜歩きは始まった。
 泰雅は相変わらず毎夜、泉水の寝所を訪れ、二人は共に夜を過ごすけれど、泉水は正直、良人の心がますます判らなくなりつつある。
 泰雅の夜遊びが再び始まったせいで、屋敷には様々な噂が囁かれ始めている。
 いずれにしろ、時橋にとって女主人の耳にはけして入れたくないと思うようなものばかりであった。

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