
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第33章 儚い恋
《巻の四―儚い恋―》
夕風がひんやりと頬を撫でて通り過ぎる。
昼間ははや夏を思わせる陽気で、少し動いただけで汗ばむほどだが、流石に黄昏刻ともなると、風もひんやりしてくる。殊に川のほとりにこうして佇んでいれば、川面を渡る風の冷たさが滲みた。
いや、幾ら何でも冬ではあるまいし、川風が身に滲みるはずはない。心に、滲みるのだ。
もう、何がどうなっても良いとさえ思っていた。泉水は暗澹とした想いで暗い川面を見つめる。次第に暗くなってゆく空の色を映し、川は淀んで見えた。いつもなら茜色から淡い菫色、群青色、刻々と様々な色に染め変わる空を眺めるのが何よりの愉しみであったけれど、今日だけは流石にそんな気分にはなれない。
脇坂倉之助が落胆して帰っていった後、泉水はしばらく放心したように、その場に座っていた。
自分は何人の人を不幸に陥れれば、良いのか、嘆かせれば良いのか。そう思うと、居たたまれなかった。こんな場所には、やはり居たくないと思ったのは確かだ。半ば夢遊病者のような体になっていたのだろう。
夢中で屋敷を抜け出し、気が付けば、見慣れた場所―江戸の町外れ、和泉橋のほとりに立っていた。ここは、泰雅と互いを夫婦とは知らずにめぐり逢い、恋に落ちた場所でもある。思えば、あれが泰雅との縁(えにし)の始まりであった。
男装しては、しょっ中、江戸の町をお忍びで歩き回っていた泉水である。人眼に触れずに屋敷を出るのは容易いことだった。流石に袴は今は持ち合わせていなかったけれど、裾を引きずる打掛を脱ぎ捨て、小袖一枚になれば、かなり身は軽くなる。更に小袖の裾を端折ってしまえば、動くのも楽だ。塀だって容易く乗り越えられた。もっとも、袴姿のときのようなわけにはゆかないが。
別に監視の者がいたわけではなく、控えの間にいつも詰めている腰元には、厠にゆくと告げて部屋を出たのだ。今では唯一の腹心となっている腰元美倻にだけは、何も告げずに出てゆくことを心で詫びた。まさか泰雅も泉水が五年前のように塀を乗り越えて脱出するとまでは想像もしなかったに相違ない。
夕風がひんやりと頬を撫でて通り過ぎる。
昼間ははや夏を思わせる陽気で、少し動いただけで汗ばむほどだが、流石に黄昏刻ともなると、風もひんやりしてくる。殊に川のほとりにこうして佇んでいれば、川面を渡る風の冷たさが滲みた。
いや、幾ら何でも冬ではあるまいし、川風が身に滲みるはずはない。心に、滲みるのだ。
もう、何がどうなっても良いとさえ思っていた。泉水は暗澹とした想いで暗い川面を見つめる。次第に暗くなってゆく空の色を映し、川は淀んで見えた。いつもなら茜色から淡い菫色、群青色、刻々と様々な色に染め変わる空を眺めるのが何よりの愉しみであったけれど、今日だけは流石にそんな気分にはなれない。
脇坂倉之助が落胆して帰っていった後、泉水はしばらく放心したように、その場に座っていた。
自分は何人の人を不幸に陥れれば、良いのか、嘆かせれば良いのか。そう思うと、居たたまれなかった。こんな場所には、やはり居たくないと思ったのは確かだ。半ば夢遊病者のような体になっていたのだろう。
夢中で屋敷を抜け出し、気が付けば、見慣れた場所―江戸の町外れ、和泉橋のほとりに立っていた。ここは、泰雅と互いを夫婦とは知らずにめぐり逢い、恋に落ちた場所でもある。思えば、あれが泰雅との縁(えにし)の始まりであった。
男装しては、しょっ中、江戸の町をお忍びで歩き回っていた泉水である。人眼に触れずに屋敷を出るのは容易いことだった。流石に袴は今は持ち合わせていなかったけれど、裾を引きずる打掛を脱ぎ捨て、小袖一枚になれば、かなり身は軽くなる。更に小袖の裾を端折ってしまえば、動くのも楽だ。塀だって容易く乗り越えられた。もっとも、袴姿のときのようなわけにはゆかないが。
別に監視の者がいたわけではなく、控えの間にいつも詰めている腰元には、厠にゆくと告げて部屋を出たのだ。今では唯一の腹心となっている腰元美倻にだけは、何も告げずに出てゆくことを心で詫びた。まさか泰雅も泉水が五年前のように塀を乗り越えて脱出するとまでは想像もしなかったに相違ない。
