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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 塀をまたいだ時、一瞬、時橋の面影がよぎった。いつも男装しては、こうして塀を乗り越えて江戸の町へと出ていったものだ。その度に、帰ってから時橋に捕まり、いやというほどお説教を聞かされる羽目になった。
―また、黙ってお出かけになられましたね?
 本当に、どうして、お方さまはいつまで経っても、このように童のようでいらっしゃるのでしょう。やはり、この私のお育ての仕方が間違っていたとしか思えませぬ。
 いささか大仰な物言いで天を仰がんばかりに嘆息していた姿がありありと蘇る。
 もう聞き飽きたと思っていた時橋の小言さえ、今では懐かしくてたまらない。
 むしろ、もう一度聞きたいほどだ。
 その時橋も、もういない。唯一、頼りにしていた夢売りの夢五郎も京に戻り、綾小路家を継ぎ、遠い人となった。誰も彼もが泉水の傍から去ってゆく。
 漸く我に返り、現実を認識したときも、屋敷に帰らなければならないとは少しも思わなかった。外出は固く禁じられていたが、もうどうなっても良いという投げやりな気になっていた。
―皆、いなくなってしまった。
 そう思うと、心は更にうち沈む。
 改めて自分はこの世に一人ぼっちなのだと思い知り、孤独感に押し潰されそうになった。
 月照庵に戻ろうかとも考えてみたけれど、すぐにその考えは捨てた。
 泉水がまたしても失踪したと知れば、泰雅は怒り狂うに相違ない。今度こそ、あの男は泉水を許しはしないだろう。泉水が逃げたと知れれば、まず捜索の手が伸びるのは、あの山の上の庵だろう。泰雅に殺されるのは怖くはなかったが、光照や伊左久をその巻き添えにすることはできない。
 恐らく、今度、泰雅にあいまみえるときは、自分の生命の焔が尽きるときだ、と、泉水は覚悟はしていた。それでも、もう、あの場所へ戻ろうとは思わない。
 いっそのこと、このまま―。
 泉水は暗い水面を見つめながら、考えた。
 五年前、泰雅に手込めにされ、予期せぬ懐妊を知ったときも、泉水は死のうとした。月照庵の近くの川に入ろうとしたのだ。その時、夢五郎に助けられた。あの時、泉水の胎内には黎次郎が宿っていた。
 今は、あのときの気持ちとは全く違う。

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