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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 あのときは泰雅の子を生みたくない、嫌いな男の子を宿した我が身がただ厭わしくて、死のうと思った。けれど、今は、もう本当に何もかもに絶望していた。どこまで逃げても逃げても、泰雅は泉水を追いつめる。どこに逃げても現世には泉水の居場所はない。
 そう思って御仏に仕える道を選び、現世を捨てたのに、またしても、泰雅は泉水を追いつめ、結局、泉水は連れ戻されることになってしまった。
 現世を捨ててさえ、逃れることが叶わぬのであれば、この生命を絶てば、今度は大丈夫かもしれない。あの世までは流石に泰雅も追ってはこないだろう。
 そんな想いが、脳裡をよぎる。
 瞼で白い花が揺れている。蒼い蝶がひらひらと飛ぶ。まるで、泉水を呼ぶかのように、せわしなく羽根を動かしながら、眼の前を通り過ぎてゆく。
「待って」
 泉水は思わず叫び声を上げていた。
 飛び去ろうとする美しき蝶を求め、手を差し伸べる。刹那、川から誰かが呼ぶ声が聞こえてきた。
―おいで、おいで。ここに来れば、お前は楽になれる。もう、苦しむことはない。さあ、おいで。私と一緒にゆこう。
 蝶が水面の上すれすれに飛ぶ。
―待って、私を一人にしないで。
 あの水底(みなそこ)には、時橋がいるだろうか。
 ね、時橋、もう少しだけ待っていて。私もすぐに逝くから。
 泉水の身体がまさに水面に吸い込まれそうになったその刹那、か細い身体は背後からしっかりと抱き止められていた。
「おい、何をしてるんだ? 馬鹿なこたァ考えるんじゃねえぜ」
 どこか懐かしさを憶えるその声に、泉水は思わず現に引き戻された。まさに、その男の声が、逞しい手が、泉水を現世に繋ぎ止めたのである。この名も知られぬ小さな川には〝和泉橋〟と呼ばれる橋がかかっている。榊原家の屋敷もある閑静な武家屋敷町と商人たちの町、町人町とを繋ぐ橋であった。
 泉水はハッと我に返り、恐る恐る背後を振り返った。今更ながらに、自分がどれほど怖ろしいことをしようとしていたかを知り、蒼褪める。もし、この男が止めてくれなければ、今頃、泉水は和泉橋ではなく黄泉路の橋―この世とあの世を繋ぐ橋を渡っていたかもしれないのだ。

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