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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

「そんなこたァ、気にすることはねえ。いつかも言っただろう? あいつと縁を切る気になったら、いつでも俺のところに来いって」
―あの女たらしの亭主と別れる気になったら、いつでも俺のところに来い。貧乏冷や飯食いの身だが、お前一人くらいはちゃんと養ってやるよ。
 六年前のあの日、別れ際に兵庫之助は確かにそう言った。流石に、あの時、まさかその科白が本当になるとは考えだにしなかったが。
「悪ィことは言わねえ。俺のところに来いよ」
 それでもなお躊躇う泉水に、兵庫之助が言う。
「お前さんがお奉行の許に帰るつもりだっていうのなら、槙野さまのお屋敷まで送っていくぜ」
 泉水は黙って、かぶりを振った。
 新しい妻や腹違いの弟妹たちと新しい生活を営んでいる父に、今更迷惑はかけたくない。
 今、泉水が帰ったとしたら、父は子細を問いただした上でなら、温かく迎え入れてくれるに相違ない。また、二度目の妻となった深雪もけして嫌な顔はしないだろう。が、そんな二人だからこそ、心配はかけたくないし、邪魔はしたくなかった。
 兵庫之助が無造作に手を差し出す。
 泉水は愕いて、弾かれたように顔を上げ、兵庫之助を見上げた。
 十六夜の月が川面に映り、月の影を宿した水面がかすかに揺れている。川のほとりに一本だけ植わった桜の大樹が月光に照らされ、黒々とした影を地面に伸ばしていた。
 それでも、まだ泉水は迷っていた。
 それは当然のことだ。泉水は立場上、まだ泰雅の室であることに変わりはない。縁を切るとはいっても、あくまでも泉水一人の個人的感情だけのものにすぎない。泰雅の妻という立場で兵庫之助の住まいなぞに行けば、世間的に二人の関係がどのように見られるか。
 良人のある女が他の男と同棲する―、それは大変な醜聞に他ならない。泰雅が知れば、ただでは済まないだろう。先刻も懸念したとおり、兵庫之助に多大な迷惑をかけることになるのは明白だ。
 泉水は、兵庫之助の手を見る。泰雅のように鍛えてはいるが、優美さを失っていない手とは違う。無骨な、けれど大きくて、頼り甲斐のある手であった。
 ふと、その手を取ってみたい衝動に突き動かされる。

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