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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 誰でも良いから、私をあの男のところからさらって欲しい。どこでも良いから、ここではないどこかへ連れていって欲しい。永久にあの男の手の届かない場所に。
 兵庫之助には申し訳ないが、半ば、自暴自棄になっていたこともある。
 泉水は差し出された男の手を取った。
 手を繋いだ瞬間、兵庫之助が泉水の小さな手を強く握りしめてきた。
 もしかしたら。自分はこの時、引き返すことのできない修羅の橋を渡ったのかもしれない。良人がありながら、他(あだ)し男の手を取るなぞとは到底許されぬ所業であった。
 兵庫之助が泉水を連れていったのは、泉水橋を渡った先の裏店であった。江戸のどこにでも見かけるような、粗末な棟割り長屋である。どうやら、目下のところ、兵庫之助はここで一人暮らしをしているらしい。
 四畳半の家の中は意外にきちんと整えられていて、掃除も行き届いている。いかにも独り身の男の住まいらしく、片隅に小さな箪笥と文机がある他は、家具も何もない至って殺風景な部屋であった。
「ま、上がれよ」
 兵庫之助が顎をしゃくっても、泉水は三和土に所在なげに立ち尽くしていた。
「何してるんだ。別に何もお前さんを取って喰おうなんざァ、これっぽっちも考えちゃいねえから。安心して良い」
 そうまで言われて、上がらないのはかえって失礼というものだろう。泉水は漸くすり切れた畳の上にあがった。
「どうだ、なかなか片付いてるだろう」
 兵庫之助の口調は、まるで母親に賞めて貰いたくて自慢する子どものようだ。
 泉水は思わず微笑んだ。
「ええ、思ったより、ずっと。兵庫之助さまって、意外に几帳面だったりするんですね」「おいおい、そいつは先のお前さんの科白じゃねえが、賞めてるつもりなのかい?」
 兵庫之助が大仰に肩をすくめて見せる。
 泉水は笑いながら頷く。
「もちろん、賞め言葉ですよ」
「まっ、良いか。深く考えるのは止めとこう。どうも、俺は出来の良い兄貴と違って、生まれつきここが良くねえもんで、物事を深ーく考えるのは苦手なんだ」

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