テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

「そりゃ、お前さん、ちょっと俺を買い被りすぎじゃねえのか」
 兵庫之助はそう言った後で、ポツリと洩らした。
「だが、信じてくれてたっていうのは嬉しいな」
 泉水と兵庫之助は顔を見合わせて、笑った。
 久しぶりに過ごす、心穏やかなひとときであった。
 積もる話に刻の経つのさえ忘れ、その夜は明け方近くまで話が弾んだ。
 
 翌日から、一風奇妙な、けれど愉しい生活が始まった。兵庫之助の話はけして嘘ではなかった。確かに料理は本人の弁どおり、玄人はだしで、ありあわせの材料で素早く、しかも見た目もきれいに作る。例えば、包丁を器用に使いこなし、大根を今にも羽ばたこうとする鶴や牡丹の花の形に仕上げるのだ。
 泉水は、包丁を巧みに使う兵庫之助の手許をじいっと覗き込んでいると、飽きることがなかった。
「凄い、これはもう天才としか言いようがありませんねえ。こういうのを天賦の才能というのかしら」
 と、根っから感心していると、兵庫之助が笑う。
「ぷっ、大袈裟だな。だが、そこまで賞められて悪い気はしねえや」
「ねえ、兵庫之助さま。兵庫之助さまって、もしかして、料理人とかになりたかったんじゃないですか?」
 むろん、半分は当てずっぽうではあったけれど、兵庫之助の料理はどちらかといえば実用的というよりは装飾的だった。判り易くいえば、一膳飯屋で出される料理と高級料亭で出されるものとの品の差といったところか。どちらが良い、悪いの問題ではなくて、兵庫之助のこしらえる料理は、そういった料亭で大店の旦那衆が食するようなものだったのだ。
 それで、試しに言ってみたら、これが大当たりだったらしい。兵庫之助は苦笑いを浮かべながら語った。
「秋月の家を出たのがもうかれこれ三年前になるかな。旗本奴なんぞからきっぱり脚を洗い、まずは積年の夢を果たすべく深川の料亭に見習いとして弟子入りしたのさ」

ストーリーメニュー

TOPTOPへ