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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 泉水が教えられた名は、かなり名の知られた料亭であった。兵庫之助はそこで一年ほど働いていたが、途中で先輩の板前と喧嘩して、そのまま料亭を飛び出した。
「他人を悪くは言いたかァねえが、本当に嫌みな奴だった。何で旗本の倅が板前になりてえんだって、事ある毎に俺をいびりやがった。親方の前では虫も殺さねえような優等生面しやがって、そのくせ、裏では後輩をねちねちと苛めるのさ。俺ァ、そういう裏表のある奴が大嫌いで、それでも折角見つけた働き口だったから、これでも相当我慢したんだぜ。けど、ある日、とうとう堪忍袋の緒を切らしちまって、そいつをぶん殴っちまった」
 その喧嘩で、相手の男は頬が腫れ上がるほどの怪我をした。そのため、親方もやむなく兵庫之助を破門にせざるを得なかった。
「俺って、つくづく駄目な奴なのよ。折角上手くゆきかけても、気が短くて喧嘩っ早いから、すぐに手が出て、それで何もかも駄目になっちまう」
 いつもは自信過剰気味の兵庫之助が、そのときだけは落ち込んでいた。
 泉水はそんな兵庫之助の肩を励ますように叩いた。むろん、小柄な泉水は背伸びをしなければならなかったが―。
「そんなことありませんってば。料亭での件だって、兵庫之助さまが悪いわけじゃないでしょう。人間、正直者が馬鹿を見るって言うでしょ。兵庫之助さまはただ真っ正直すぎるだけなんですよ」
 果たして、それが慰めになったかどうかは判らなかったけれど、兵庫之助は嬉しそうに笑っていた。
 むろん、兵庫之助は、ごくありふれた惣菜も上手かった。泉水は兵庫之助から料理を教わることになった。
 勘定奉行の姫として育ち、嫁しても大身旗本の奥方として暮らしていた泉水にとって、料理は得意な方ではない。ただ、五年間の尼寺での生活で、ひととおりの料理はできるようにはなっていた。何しろ、月照庵では、泉水が皆の食事を作っていたのだ。
 それでも、兵庫之助から見れば、泉水の腕はまだまだらしい。兵庫之助の作るだし巻きがあまりに美味ゆえ、それを習いたいと言い出した泉水に、兵庫之助は快く指南してくれた。
 卵焼き器を竈にかけ、その上で卵を焼くのだが、泉水は火傷してしまった。熱した卵焼き器にうかと触れてしまったのだ。

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