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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

「不細工だなァ」
 兵庫之助がさもおかしそうに笑うので、腹が立った泉水は悔し紛れに思い切り、その腕をつねってやった。
「失礼ね。人が痛い想いをしてるのに、そんなに面白がることないでしょう」
「いてて―、悪かった、悪かったよ」
 兵庫之助は痛さに顔をしかめながら平謝りに謝る。
「よろしい、それで許して差し上げます」
 やはり笑いながら言った泉水に、兵庫之助が苦笑する。
「生意気な女だな。だし巻きもろくに作れねえくせに」
「何ですって」
 泉水がまた、つねる真似をすると、兵庫之助はおどけて〝止めてくれえ、勘弁してくれ〟と逃げるふりをして見せた。
「その程度の火傷なら、こうして舐めときゃア、すぐ治るんだよ」
 いきなり泉水の手を掴み、引き寄せた。
 悪びれることなく、その指をすっと自分の口にくわえた。その瞬間、泉水の指にじんと痺れるような感覚が走った。甘く痺れるような、切ないような気持ちになったと思ったのは、気のせいか。
 動揺する泉水の胸中なぞ知らぬげに、兵庫之助は平然としている。一人で狼狽える自分が馬鹿のように思えてならなかった。
 泉水は思いもかけぬ自分の反応に、大いに戸惑った。 
 兵庫之助は一日の大半を家で過ごし、大抵は文机に向かっていた。頼まれた書状・書類などを代書するためである。
 泉水は兵庫之助の仕事の邪魔にならぬように、息を潜めるようにして傍で眺めるのが常であった。
「お前さんの方がそんなに緊張しまくってたら、俺まで手が震えちまう。眺める分には幾ら眺めたって減るもんじゃなし、構やしねえが、もう少し気楽に眺めててくれよ」
 そう言って、兵庫之助が笑ったほどだ。
 仕事の合間には、さらさらといろは四十六文字を書いて、その腕を披露したりする。流石というか、何と言うか、なかなかの達筆だった。勇壮な男らしい手蹟は、彼の気性を表しているのかもれしない。当人いわく、取り柄は料理の腕と筆だけとのことだが、実際のところ、兵庫之助は泉水が思っている以上の男なのかもしれなかった。

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