
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第33章 儚い恋
兵庫之助と暮らし始めて、ひと月が経った。その間、兵庫之助は一切の事情は訊かなかった。どうして、榊原の屋敷を出たのかも、もう泰雅の許に戻るつもりはないのかとも。
泉水が話そうとすると、
「もう少しお前さんの気持ちが落ち着いてからで良いさ」
と、軽く受け流した。兵庫之助は、榊原泰雅だけではなく、かつて淡い想いを寄せていた夢売りの夢五郎とも違った類の男であった。
どうやら、彼は、泉水がこの五年間、江戸にいなかったことを知らないようであった。当主の正室が失踪などと世間に露見すれば、お家の恥ともなり、榊原家の対面にも傷が付く。そのことを考慮して、泉水の不在が世間には伏せられ、滅多と姿を見せないのは病気療養中とのみ公表されていたせいであった。
そんなある夜。
泉水は丁度、兵庫之助の袴の綻びを繕っている最中であった。共に暮らすようになって、泉水は兵庫之助が代書屋の仕事に専念できるようにと、掃除や洗濯のすべてをこなすようにしていた。兵庫之助は、これには済まなさがったが、突然押しかけて居候させて貰うのだ、これくらいのことをするのは当たり前、家賃代わりだと思って欲しいと告げると、やっと納得してくれたようだった。
ただ、三度の飯の支度だけは、これは兵庫之助と二人で交代で行った。というわけで、食事当番は二日に一度、掃除も洗濯もたいした量ではないから、泉水は時間を持て余すことになる。そのため、得意の仕立物―得意なのは剣術だけではない―を活かして、仕立物の内職をすることにした。
幸いにも同じ長屋に口入れ屋がいて、この男は裏店をねぐらにしてはいても、ちゃんとした表店を構えていた。この男から仕立物の仕事を紹介して貰うことになり、いささかでも銭を稼ぐことができるようになった。
―槙野さまの姫君にお針子なんざア、そんなことをさせられねえ。親父や兄貴に知れたら、お奉行に顔向けできねえと俺が大目玉を喰らうぜ。それにしても、人はやはり見かけにはよらねえな、お前さんが得意なのは、やっとうと喧嘩だけかと思ってたがな。
泉水が仕立物をする傍にいる兵庫之助は実に、けしからぬことを言う。
―つくづく失礼な人ね。人を何だと思ってるんですか? 兵庫之助さまは、私を真に男だと思われていたのではないですか? お生憎さま、こう見えても、私はちゃんとした女です!
泉水が話そうとすると、
「もう少しお前さんの気持ちが落ち着いてからで良いさ」
と、軽く受け流した。兵庫之助は、榊原泰雅だけではなく、かつて淡い想いを寄せていた夢売りの夢五郎とも違った類の男であった。
どうやら、彼は、泉水がこの五年間、江戸にいなかったことを知らないようであった。当主の正室が失踪などと世間に露見すれば、お家の恥ともなり、榊原家の対面にも傷が付く。そのことを考慮して、泉水の不在が世間には伏せられ、滅多と姿を見せないのは病気療養中とのみ公表されていたせいであった。
そんなある夜。
泉水は丁度、兵庫之助の袴の綻びを繕っている最中であった。共に暮らすようになって、泉水は兵庫之助が代書屋の仕事に専念できるようにと、掃除や洗濯のすべてをこなすようにしていた。兵庫之助は、これには済まなさがったが、突然押しかけて居候させて貰うのだ、これくらいのことをするのは当たり前、家賃代わりだと思って欲しいと告げると、やっと納得してくれたようだった。
ただ、三度の飯の支度だけは、これは兵庫之助と二人で交代で行った。というわけで、食事当番は二日に一度、掃除も洗濯もたいした量ではないから、泉水は時間を持て余すことになる。そのため、得意の仕立物―得意なのは剣術だけではない―を活かして、仕立物の内職をすることにした。
幸いにも同じ長屋に口入れ屋がいて、この男は裏店をねぐらにしてはいても、ちゃんとした表店を構えていた。この男から仕立物の仕事を紹介して貰うことになり、いささかでも銭を稼ぐことができるようになった。
―槙野さまの姫君にお針子なんざア、そんなことをさせられねえ。親父や兄貴に知れたら、お奉行に顔向けできねえと俺が大目玉を喰らうぜ。それにしても、人はやはり見かけにはよらねえな、お前さんが得意なのは、やっとうと喧嘩だけかと思ってたがな。
泉水が仕立物をする傍にいる兵庫之助は実に、けしからぬことを言う。
―つくづく失礼な人ね。人を何だと思ってるんですか? 兵庫之助さまは、私を真に男だと思われていたのではないですか? お生憎さま、こう見えても、私はちゃんとした女です!
