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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 あの夜のことを、泉水はずっと忘れないだろう。
「幸せです」
 ふと呟いた泉水の髪を、兵庫之助が愛おしげに撫でる。
「俺も、幸せだ。こんな風に満ち足りた、穏やかな気持ちになったことはない」
「本当に、心からそのように思って下さいますか?」
「むろんだとも。泉水は、俺の大切な女房だ。惚れた女と始終、こうして一緒にいられる。それほどの幸せがあるものか」
「嬉しい」
 泉水は兵庫之助の胸にいっそう頬を押しつける。
「おいおい、今日の泉水は随分と積極的だな」
 兵庫之助が笑った。
 この幸せがずっと続けば良い。
 そう、願わずにはおれない。だが、こんなに幸せで良いのかという不安がいつも心のどこかにある。いつか、この幸せは儚く、うたかたのように消えるのではないかと怯えていた。
 それは全く根拠のない不安ではあったけれど、何か泉水を急き立てるように、追い立てるように背後から迫ってくるのだった。
 いつまでも離れようとしない泉水の背をを、兵庫之助が軽く叩いた。
「腹が減っちまった。そろそろ飯にしねえか」
「済みません。私ったら、はしたない」
 泉水は慌てて兵庫之助から離れた。
 泉水は少女のように頬を染めている。
 そんな妻を兵庫之助は、優しいまなざしで見つめていた。

 その翌朝、兵庫之助は出来上がった代書を届けに得意先に出かけていった。行く先は日本橋の和菓子問屋〝菱屋〟で、名の知れた老舗だ。
 その店の跡取り息子が見合いをするというので、兵庫之助に釣書を書いて欲しいと菱屋の主人が自ら訪ねてきたのである。代書屋としての兵庫之助の評判はまずまずのようであった。菱屋の主人はつい半年前にも、二番目の娘の見合いの際の釣書を兵庫之助に頼んでいる。
 兵庫之助が出かけた後、泉水は長屋の共同井戸で洗濯を済ませた。それからは、仕立物の内職に打ち込んで刻を過ごした。
 泉水の方も同じ裏店に住む口入れ屋の清吉が何かと客を紹介してくれ、何とか続けていられる。

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