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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 つい最近、菱屋の内儀が嫁いだ長女と二人の外孫のために正月用の晴れ着を縫って欲しいと兵庫之助を通じて注文をくれた。既に子ども二人の晴れ着は出来上がっている。
 鶴丸を織り出した紅色の小袖は、八歳になる上の娘のものだ。子どもの着物を縫っていると、どうしても黎次郎のことを思い出してしまう。
 今頃、夏風邪を引いてはいまいか、この連日の暑さで食が細ってはいないか。様々な不安がどっと押し寄せ、どうか健やかに育って欲しいと祈らずにはいられない。二度も我が子を捨てたことになる母は、こうして遠くから子の健やかな成長を祈るしかないのだった。
 とりとめもない物想いを振り切り、顔を上げた時、表の方で人の気配がした。真夏のこととて、表の腰高障子は開けている。
 ふいに現れた闖入者と視線が合ったその瞬間、泉水の顔が見る間に強ばった。
「―」
 愕きのあまり、声すら出ない。
「泉水、迎えにきたぞ。共に帰ろう」
 泉水は無意識の中に烈しく首を振った。
―どうして、どうして、この男がここにいるの? 
 信じられない想いで、泰雅を見つめる。
「随分と方々を探し回ったが、この際、それはもう申すまい。それゆえ、今すぐに俺と帰るのだ」
「いやっ」
 泉水は悲鳴を上げ、近付いてくる泰雅を怯え切った眼で見つめた。
「さあ、来るんだ」
 手を掴まれ、力一杯引っ張られる。幾ら踏ん張ってみても、力のない泉水は引きずられるようにして連れてゆかれる。
 泰雅の動きがふと止まった。
 哀しげな瞳で泉水を見つめる。
「憎んでも良い、嫌われても良い。頼む、どうか俺の傍にいてくれ。俺には泉水が必要なのだ」
 悲痛な叫びが、泉水の胸を衝く。
 そこには、狂気に憑かれた男ではなく、ただ一人の傷ついた男がいるだけであった。
―もし、奥方さまがこのまま殿を拒絶なさり続けるならば、今度こそ、殿は真に駄目になってしまわれるやもしれませぬ。
 脇坂倉之助の言葉が今更ながらに蘇る。
 だが、今の泉水には、いかにしても泰雅の手を取ることはできなかった。

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