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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 心の中で兵庫之助への恋情と、泰雅への哀憐がせめぎ合う。
 泉水の身体を夜毎、責め苛んだ男、黎次郎を取り上げ、仏道に入った泉水を卑怯な方法で連れ戻した憎んでも憎みきれぬ男であった。
 それでも、かつては愛し合った男であった。
 その男が、今、深く傷ついて、助けて欲しい、傍に居て欲しいと頼んでいる。
 そんな男を自分は突き放せるのか。
 泉水は何か言おうとして、涙が零れそうになった。
「もう二度と、ここにおいでにならないで下さい」
 泰雅に背を向け、ひと息に言う。
 短い静寂があった。
「―それが、そなたの応えなのか?」
 何も応えないでいると、泰雅は静かに出ていった。脚音が遠ざかってゆく。
 今度こそは強引に連れ戻されるか、その前にここで斬り捨てられるだろうと覚悟をしていたのに、あまりにもあっさりとした退き方であった。これまでの執念深い泰雅からでは考えられないことだ。
 泉水は三和土に降り、表の様子を窺った。
 泰雅は本当に帰ったのか、表の路地には人影はなく、ただ真夏の陽光に灼かれる道が陽炎のように白い湯気をゆらゆらと立ちのぼらせているだけだ。
 なにげなく軒下を見た泉水の顔から血の気が引いた。

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