
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第34章 涙
兵庫之助と夫婦(めおと)だと名乗っているとはいえ、世間に認められたわけでもなく、表向きには泉水はまだ榊原泰雅の妻であることに何ら変わりはない。それでも、泉水は幸福だった。心から愛され、大切にされていると実感できる。何より兵庫之助は泉水の身体目当てではなく、泉水の心―泉水の存在そのものを認め、必要としてくれている。それが判るからこそ、泉水はかえって安堵して心から兵庫之助に身を委ねることができるのだ。
たとえ身体的には結ばれてはいなくても、泉水は自分はこの男の〝妻〟なのだと胸を張って言える。いや、この男の妻なのだということを誇りにすら思える。
「もっとも、鰻を食ったくらいじゃア、贅沢っていうほどの贅沢とも言えねえかもしれないが」
苦笑を浮かべる兵庫之助に、泉水は真顔で首を振る。
「贅沢をしようだなんて、私はこれっぽっちも思ってません。私は兵庫之助さまがお元気でいて下さって、二人でいつまでもこうやって暮らせたら、それだけで十分なんです」
「可愛いことを言ってくれるな、泉水は」
兵庫之助は心底嬉しげに破顔し、泉水の頭をくしゃりと撫でた。まるで妹に対するような扱いではあるが、不思議と泉水の心はときめく。こうやって些細な何げない仕草、兵庫之助に少しでも触れられただけで、心が浮き立つのが我ながら恥ずかしい。
「たかだか日本橋まで出かけるだけだっていうのに、そんなに心細そうな顔をしないでくれよ。できるだけ早く帰ってくるから、なっ」
兵庫之助が泉水の顔を覗き込みもう一度、くしゃりと髪を撫でた。
その傍らを、斜向かいの大工の女房が満面の笑みで通り過ぎてゆく。
「まっ、若い人は良いねえ。こんな朝っぱらから仲の良いことで」
冷やかすように言って木戸を出てゆく女房の太り肉(じし)の後ろ姿をぼんやりと見送っていると、兵庫之助が肩をすくめた。
「相も変わらず、賑やかだな」
「じゃあ、行ってくる」
背を向けて歩いてゆく兵庫之助の姿を初秋の太陽が照らし出している。まだ夏を思わせる容赦ない陽差しではあったけれど、どこか真夏とは微妙に違うのは、やはり忍び込む秋の気配のせいであったろうか。真夏よりはやや勢いをなくした陽光に透けて、兵庫之助の上背のある後ろ姿が一瞬、ふと儚くかき消えてしまうような錯覚に囚われた。
たとえ身体的には結ばれてはいなくても、泉水は自分はこの男の〝妻〟なのだと胸を張って言える。いや、この男の妻なのだということを誇りにすら思える。
「もっとも、鰻を食ったくらいじゃア、贅沢っていうほどの贅沢とも言えねえかもしれないが」
苦笑を浮かべる兵庫之助に、泉水は真顔で首を振る。
「贅沢をしようだなんて、私はこれっぽっちも思ってません。私は兵庫之助さまがお元気でいて下さって、二人でいつまでもこうやって暮らせたら、それだけで十分なんです」
「可愛いことを言ってくれるな、泉水は」
兵庫之助は心底嬉しげに破顔し、泉水の頭をくしゃりと撫でた。まるで妹に対するような扱いではあるが、不思議と泉水の心はときめく。こうやって些細な何げない仕草、兵庫之助に少しでも触れられただけで、心が浮き立つのが我ながら恥ずかしい。
「たかだか日本橋まで出かけるだけだっていうのに、そんなに心細そうな顔をしないでくれよ。できるだけ早く帰ってくるから、なっ」
兵庫之助が泉水の顔を覗き込みもう一度、くしゃりと髪を撫でた。
その傍らを、斜向かいの大工の女房が満面の笑みで通り過ぎてゆく。
「まっ、若い人は良いねえ。こんな朝っぱらから仲の良いことで」
冷やかすように言って木戸を出てゆく女房の太り肉(じし)の後ろ姿をぼんやりと見送っていると、兵庫之助が肩をすくめた。
「相も変わらず、賑やかだな」
「じゃあ、行ってくる」
背を向けて歩いてゆく兵庫之助の姿を初秋の太陽が照らし出している。まだ夏を思わせる容赦ない陽差しではあったけれど、どこか真夏とは微妙に違うのは、やはり忍び込む秋の気配のせいであったろうか。真夏よりはやや勢いをなくした陽光に透けて、兵庫之助の上背のある後ろ姿が一瞬、ふと儚くかき消えてしまうような錯覚に囚われた。
