
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第34章 涙
そのときの兵庫之助の無防備な後ろ姿は、まさに陽の光に溶け込んでしまうほどの頼りなさを憶えずにはおれなかった。
「兵庫之助さま」
ふと口から転がり落ちた名に、兵庫之助がつと振り返る。
「どうした?」
「お守りを落とさないで下さいね?」
やっとの想いで言った科白は、随分とありきたりのものになってしまったが、兵庫之助は泉水の胸の不安を十分にくみ取ったようだ。無骨な外見や性格には似合わず、意外に人の心の機微や動きを見るのには長けた男であった。生来、気遣いのできる、優しい男なのだ。
「ああ、落としたりするものか」
兵庫之助は屈託ない笑みを浮かべると、今度こそ背を向けた。それでもなお何か言いたげに所在なく立ち尽くしていると、更に数歩あるいたところで、兵庫之助が振り向いた。
「ん、何だ? そんなところに立ってちゃア、暑いだろう。早く家に戻りなさい」
陽に灼けた精悍で、なおかつ端整な面立ちと六尺豊かな逞しい身体つき、腰帯に刀を差し、分厚い胸を張って佇む姿には威風さえ漂わせている。
長身だと云われていた泰雅より、更に頭半分、身の丈のある兵庫之助であった。小柄な泉水が隣に並べば、それこそ見上げるような、天を振り仰ぐような恰好になってしまう。
そんな良人を見つめながら、泉水は何故か無性に胸騒ぎがしてならない。
―大好きです。
言おうとして、言えず、泉水は言葉を呑み込んだ。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
満面の笑みを浮かべ、兵庫之助は軽く片手を上げ、ゆっくりと歩いていった。
泉水は兵庫之助の姿が見えなくなるまで、その場に佇んでいた。やがて、緩慢な足取りで元来た道を辿り、長屋へと戻る。
何故、こんなに不安なのか自分でも判らない。咄嗟に、ここのところ毎夜のように見る夢を思い出し、泉水はますます不安をかき立てられた。
「兵庫之助さま」
ふと口から転がり落ちた名に、兵庫之助がつと振り返る。
「どうした?」
「お守りを落とさないで下さいね?」
やっとの想いで言った科白は、随分とありきたりのものになってしまったが、兵庫之助は泉水の胸の不安を十分にくみ取ったようだ。無骨な外見や性格には似合わず、意外に人の心の機微や動きを見るのには長けた男であった。生来、気遣いのできる、優しい男なのだ。
「ああ、落としたりするものか」
兵庫之助は屈託ない笑みを浮かべると、今度こそ背を向けた。それでもなお何か言いたげに所在なく立ち尽くしていると、更に数歩あるいたところで、兵庫之助が振り向いた。
「ん、何だ? そんなところに立ってちゃア、暑いだろう。早く家に戻りなさい」
陽に灼けた精悍で、なおかつ端整な面立ちと六尺豊かな逞しい身体つき、腰帯に刀を差し、分厚い胸を張って佇む姿には威風さえ漂わせている。
長身だと云われていた泰雅より、更に頭半分、身の丈のある兵庫之助であった。小柄な泉水が隣に並べば、それこそ見上げるような、天を振り仰ぐような恰好になってしまう。
そんな良人を見つめながら、泉水は何故か無性に胸騒ぎがしてならない。
―大好きです。
言おうとして、言えず、泉水は言葉を呑み込んだ。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
満面の笑みを浮かべ、兵庫之助は軽く片手を上げ、ゆっくりと歩いていった。
泉水は兵庫之助の姿が見えなくなるまで、その場に佇んでいた。やがて、緩慢な足取りで元来た道を辿り、長屋へと戻る。
何故、こんなに不安なのか自分でも判らない。咄嗟に、ここのところ毎夜のように見る夢を思い出し、泉水はますます不安をかき立てられた。
