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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第5章 《謎の女》

《謎の女》

 その日の昼下がり、泉水は縁廊からそっと庭に降りようとしていた。自室を出て、磨き抜かれた廊下が幾重にも折れ曲がった先のここら辺りは屋敷内でもひときわ奥まった一角に位置している。縁からわ中庭が一望でき、水無月も半ばの今は紫陽花が緑濃い葉を茂らせている。ここは、ふた月ほど前、泰雅と泉水が初めて“夫婦”として出逢った場所でもある。それまで泉水は泰雅がよもや自分の良人であるとは想像だにしなかった。
 ただ町中で偶然通りすがりに出逢った、忘れ得ぬ男だと思い、一途に恋い慕っていた。 あの時、泉水は泰雅が怖かった。町で見かけたときの泰雅とは別人のように欲望にぎらつかせた眼を向け、泉水を嘗め回すように見ていた。あの酷薄な光を宿した瞳を無性に怖いと感じたのだ。あのときの泰雅の頭の中には泉水を、欲しい女をただ手に入れることしかなかった。
 そして、その夜、泰雅はあろうことか泉水の寝所に夜這いにきた。嫌がる泉水を手込めにしてしまった。泉水は翌朝、榊原屋敷を飛び出し実家に逃げ帰った。このまま泰雅と顔を合わせるのはいやだったし、あんな強引な泉水の心を無視したやり方で泉水を自分のものにしてしまった泰雅を許せなかった。
 それでもなお、泉水は泰雅に惚れていた。惚れているのに、強引に泉水を自分のものにしようとする泰雅の胸に素直には飛び込めない。泉水は暗澹たる気持ちに囚われた。だが、泰雅がやがて槙野の屋敷まで迎えにきて、泉水と泰雅は漸く心を通わせることができた。 少なくとも、泉水はそのように考えていたのだけれど、果たして泰雅はどのような気持ちでいたのだろう。考えたくもないことだが、もしかしたら、泰雅は泉水を手に入れるために、芝居を打ったのかもしれない。いや、あの時、泉水一人だけを守るのだと言ったあのときの泰雅の眼には嘘偽りはなかった。
 だが、人の心はうつろうものだ。たとえ泰雅があの日、心からそう言ったのだとしても、泉水に泰雅を引き止めるだけの力がなかったのだと言われれば所詮はそれまでのことであった。
 でも、こんな風に打ち捨てられるのであれば、いっそのこと放っておいてくれた方が良かったのにと口惜しく思ってしまうは致し方ないことだった。本当の恋を知り、大切な男の傍にいられる幸せを知った今、泉水は孤独に耐えられる自信がない。

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