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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第5章 《謎の女》

 こんな惨めな気持ちなるほどならば、この家に嫁いだ直後のように、最初からずっとお飾りだけの妻でいた方がよほどマシだった。
 泰雅は何故、泉水にいっときの幸せだけを与え、また突き放したりするのだろう。
 泉水は情けない気持ちで庭の紫陽花を眺めめた。江戸は既に梅雨入りしている。今年の梅雨は雨が多かった。梅雨に雨が多いというのはまた妙な言い方ではあるけれど、空梅雨といって比較的雨の少ない年もあれば、今年のように雨続きの年もある。
 今朝もずっと篠突く雨が降り続けていたが、昼前になって漸く止んだ。今はどんよりとした、いかにも梅雨といった風情の空が低く垂れ込めている。その鬱々とした灰色の空の下で、紫陽花が鞠のように丸く固まって星形の花を咲かせているのが何とも愛らしく、心が救われるようであった。すっきりとしているのに、全体からほのかな色香を滲ませているような不思議な花だ。さわやかな色気を漂わせる妙齢の女のようでもある。
 まだ梅雨入りしてほどないこの時期、紫陽花は淡い蒼色にうっすらと色づいていており、やがて、この花がひと雨毎に艶やかな色に染まってゆくのだ。
 花の色がうつろうように、人の心もまたうつろう。ふと、そんな想いが泉水の胸をかすめる。泰雅の心もこの花のように変わってしまったのだと認めないわけにはゆかなかった。
 泉水はしばし紫陽花の花に見入っていたが、やがて、そっと袂に忍ばせてきた草履を揃えて沓脱石に置いた。今日の泉水の出で立ちは薄い水色の小袖に海老茶色の袴だ。普段は島田に結い、蒔絵の櫛や笄を挿した黒髪も高々と頭頂部で一つに束ねている。そう、この男姿になるのは実に久しぶり、最後に若衆姿になったのは泰雅と初めて和泉橋のたもとで出逢った日のことだった。もう二ヶ月も前のことになる。あの頃、泉水は自分が恋した男がまさか良人であるとは知りもしなかった―。
 泉水は何かの想いを振り切るように小さくかぶりを振ると、草履に足を突っかけた。この中庭を突っ切ると、屋敷をぐるりと取り込んだ塀に行き当たる。かなりの高さのある塀で、女ならば到底一人でよじ登ることなぞできはしない堅牢さだが、いかにせん、泉水は並の女ではない。“槙野のお転婆姫”と異名を取ったほどだから、このくらいの高さの塀なぞ何ほどのこともない。

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