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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第34章 涙

 熟した柿を思わせる太陽が西の空を不気味な紅色に染める頃、泉水は思い切って立ち上がった。兵庫之助は今日、日本橋の紙屋と筆屋を覗いてくると言って、出かけていった。いつもはすぐ近くの町人町の筆屋で済ませている兵庫之助だが、たまには違った店でも覗いてくるかと言って、珍しく行きつけではない大きな店に出かけていった。
 代書屋稼業にとって、筆は大切な商売道具でもある。兵庫之助の手蹟はその気性を反映して、男らしい勇壮なものだ。しかも、なかなかの達筆で、几帳面さもよく表れている。丁寧な仕事ぶりが評価され、評判は上々で遠方からわざわざ大切な書状や書類の代筆を頼みにやってくる人も多かった。
 そんな兵庫之助であってみれば、筆にこだわるのは当然のことと、泉水は快く送り出したのだ。だが。それが、まさか兵庫之助に禍をもたらすとは想像だにしなかった。
 太陽が今日一日に名残を惜しむかのように、西の空を茜色に染めている。泉水はいつになく不気味なほど赤い熟れた空の色を眺めつつ、長屋を出た。行き先は、言わずと知れた日本橋の紙問屋〝紙仙〟であった。日本橋の筆屋の方には馴染みはないが、紙屋の方は主の仙五郎の妻おたみとは多少の面識がある。仙五郎はまだ若いが、やり手の商人で、この夏に初めての子が生まれたばかりであった。その際、赤子の宮参り用の晴れ着の仕立てを泉水に頼んでくれた。そのせいで、おたみとも仙五郎とも満更、知らぬ仲ではない。
 日本橋までは徒歩(かち)で四半刻はかかるが、幾ら何でも朝出て、陽が落ちるまで帰ってこないということはない。急用ができて、どこかに立ち寄ったのだろうか。
 三和土に降りる時、泉水はふっと後ろを見やった。小さな飯台のでは、手つかずの夕餉がすっかり冷めていた。代書屋が務まるほど能筆家の兵庫之助は実は、その昔は板前を目指していて、実際に深川の有名な料亭で板前修業をしていたことがあった。そんな兵庫之助であってみれば、料理は玄人はだしで、到底お姫さま育ちの泉水など及びもつかないほどの腕前だ。
 泉水は裏腹に兵庫之助から料理を教わっていたが、最初は火傷したり、塩と砂糖を間違えたりとさんざんな出来だった。最近は苦手だっただし巻き卵も大分上達したと賞められるようになった。
―大分、腕を上げたじゃねえか。

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