
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第34章 涙
泉水は多少の躊躇いを憶えながらも、頷いた。
「良人が何か?」
胸の中で膨らんでいた得体の知れぬ不安が破裂しそうになる。
震える声で問うと、年配の岡っ引きが顎を軽くしゃくった。
「最初はどこかの酔っぱらいが道端に引っ繰り返ってるもんだとばかり思って、通行人も見て見ぬふりをしてたらしいんだが」
岡っ引きの口調はどこか気の毒げだった。その言い方に引っかかるものを感じ、泉水は彼が顎で指し示した方を何げなく見やった。
刹那、刻が止まった。
路傍に無造作に戸板が置かれている。戸板に乗せられているのは言われずとも、人間であろうことは判った。恐らくは骸(むくろ)であろう―、その上に筵が載せられている。
「これは」
泉水は嫌々をするように首を振った。
「ま、こちらの旦那かどうかだけ、念のため確認してやって下せえ」
岡っ引きは小さく頭を下げると、後ろへと身を引いた。いつしか長屋の住人が顔を覗かせている。その野次馬の中には、今朝方、木戸口ですれ違った大工の女房も混じっていた。あのときのとは違い、ひどく気の毒そうな顔―赤ら顔には明らかに同情の色が浮かんでいた。
何故、あのような表情をする? 眼の前の岡っ引きもあの大工の女房までもが自分をそんな哀れみのこもった眼で見るのだろう?
そんな眼で見ないで欲しい。そんな眼で見られたら、まるで、まるで―。
戸板の傍には、まだ若い下っ引きが立っていた。岡っ引きに促され、下っ引きが筵を取る。泉水の視線が筵の下に横たわる人間に注がれた。
「―」
泉水は言葉を失った。
兵庫之助が戸板の上に転がっている。顔はあたかも眠っているかのように穏やかで、苦悶の色は微塵もなかった。ただ、少し開いた襟許から、胸の白い包帯がかいま見えた。よくよく見れば、左腕にも幾重にも包帯が巻かれ、薄く血が滲んでいる。顔にも所々、擦り傷か切り傷か判別のつかぬようなものがあった。
泉水は、兵庫之助の傍らにくずおれた。
呻きとも慟哭ともつかぬ声が腹の底から絞り出てくる。
長屋の女房たちの間からすすり泣きが洩れた。
「良人が何か?」
胸の中で膨らんでいた得体の知れぬ不安が破裂しそうになる。
震える声で問うと、年配の岡っ引きが顎を軽くしゃくった。
「最初はどこかの酔っぱらいが道端に引っ繰り返ってるもんだとばかり思って、通行人も見て見ぬふりをしてたらしいんだが」
岡っ引きの口調はどこか気の毒げだった。その言い方に引っかかるものを感じ、泉水は彼が顎で指し示した方を何げなく見やった。
刹那、刻が止まった。
路傍に無造作に戸板が置かれている。戸板に乗せられているのは言われずとも、人間であろうことは判った。恐らくは骸(むくろ)であろう―、その上に筵が載せられている。
「これは」
泉水は嫌々をするように首を振った。
「ま、こちらの旦那かどうかだけ、念のため確認してやって下せえ」
岡っ引きは小さく頭を下げると、後ろへと身を引いた。いつしか長屋の住人が顔を覗かせている。その野次馬の中には、今朝方、木戸口ですれ違った大工の女房も混じっていた。あのときのとは違い、ひどく気の毒そうな顔―赤ら顔には明らかに同情の色が浮かんでいた。
何故、あのような表情をする? 眼の前の岡っ引きもあの大工の女房までもが自分をそんな哀れみのこもった眼で見るのだろう?
そんな眼で見ないで欲しい。そんな眼で見られたら、まるで、まるで―。
戸板の傍には、まだ若い下っ引きが立っていた。岡っ引きに促され、下っ引きが筵を取る。泉水の視線が筵の下に横たわる人間に注がれた。
「―」
泉水は言葉を失った。
兵庫之助が戸板の上に転がっている。顔はあたかも眠っているかのように穏やかで、苦悶の色は微塵もなかった。ただ、少し開いた襟許から、胸の白い包帯がかいま見えた。よくよく見れば、左腕にも幾重にも包帯が巻かれ、薄く血が滲んでいる。顔にも所々、擦り傷か切り傷か判別のつかぬようなものがあった。
泉水は、兵庫之助の傍らにくずおれた。
呻きとも慟哭ともつかぬ声が腹の底から絞り出てくる。
長屋の女房たちの間からすすり泣きが洩れた。
